平成13年 9月(土)晴れ

 ホテルからタクシーで京都駅へきて、JR西で大阪の富田林駅へ向かいます。
 駅の近くで、レンタカーを借りて出発.、千早赤阪村へ向かいます。
 (このころは、トヨタレンタカーでは、ナビゲーション装備は標準でされていませんでした。今考えると、よく目的地へたどり着いたものです。)
 千早赤阪村へ入って、山道のワィンディングを登って行きます。

 千早城跡
 千早城登山口 に到着。  富田林から16.5km
 駐車料金 600円/台・日  少し高いと思いました。
 金剛山への登山口になっているためでしょうか。
 土・日は、富田林駅から金剛山登山口までバスが1時間に1本でています。片道530円。

 登山をスタートします。
 千早城跡は、金剛山への登山道の途中にある、山城です。
 天然の石とコンクリートを組み合わせた階段を登って行きます。けっこう、きついです。


千早城址への入口階段

千早城跡へ登る階段

 千早城址 着。小さな広場があり、茶店があります。おばあさんがやっています。
 トイレもありました。

千早城跡(三の丸跡)

三の丸跡(広場)

 千早神社の参道を歩いて行きます。

 千早神社に参拝。 標高630m。千早城址
 千早城址の石柱があります。駐車場から、約15分かかりました。

 千早城は、1331(元弘元)年10月、赤坂城落城後、楠木正成が構築しました。
 この城が史上に現れるのは、正成が金剛山頂の転法輪寺の僧兵支援をうけて、難攻不落のこの城に拠って挙兵した1332年11月です。
 それ以後、楠木党の本城として南北朝史に再三あらわれ、1392(元中9・明徳3)年正月、河内守護の畠山基国に急襲されて落城するまで、南北朝史の主役でした。

本丸跡にある千早神社
千早神社  金剛山から西方にのびる尾根の先端を巧みに利用した急傾斜面で囲まれた山城で、周囲約3kmります。
 現在でも本丸跡・二の丸跡・三の丸跡(広場)の間に深い塹壕跡や、突出部に出丸跡が残っています。
 本丸跡に千早神社があり、正成・正行と久子夫人の3神を祀って、1935(昭和10)年に社殿が建立されました。

【所在】大阪府南河内郡千早赤阪村千早字城山1228

 千早神社から少し登って、下り、登りになる道の左上に「楠木塚」があります。
 千早神社から歩いて5分ぐらい。
楠木塚
楠木塚
 千早神社から金剛山に向かう登山道を東に100mほど行くと、楠木正儀の墓といわれる「楠木塚」があります。
 楠木正儀は、楠木正成の子です。
 墓所は、看板はありません。石囲いに菊水の家紋がなければ、わからないところです。
 
 千早城見学を終わり、登山口に帰ってきました。
 レンタカーで出発します。

 千早城跡までは、千早赤阪村の役場付近からでもかなりの距離がありました。
 ずっとワィンディングロードの登り坂を登るばかりで、谷川添いの道です。
 これでは、鎌倉時代末の幕府軍は、城の登り口まで来るだけでたいへんな思いをしたでしょう。城の登り口付近は、平地もあまりありません。


 下赤坂城址
 下赤坂城址に到着。
 城は、千早赤阪中学校がある丘にあります。中学校のその上の高台に下赤坂城址の碑があります。

下赤坂城跡 千早赤阪中学校の所在地一帯が下赤坂城跡で、中学校内に本丸跡があります。
 南方から北方にかけて細長く突出した丘陵台地の先端部分を利用した平山城で、丘陵上に本丸・二の丸・三の丸跡が小字で残っています。
 1331(元弘元)年9月、楠木正成はこの城で挙兵したが、北条方は10月17日から21日にかけて激しく攻撃を加えました。そのため正成らは風雨にまぎれて脱出しました。
 翌1332年4月、正成らは逆襲して紀伊の湯浅定仏らを降ろして奪回しましたが、その後も再三攻防戦が繰り返されました。

 千早赤阪村は、水が豊富なようで、水路を水が勢いよく流れています。
 丘陵に棚田がをたくさん作られていました。

 千早赤坂村郷土資料館へ。



 楠公生誕地

楠公生誕地の碑 楠木正成は永仁2年(1294年)、この地に誕生したと伝えられています。
 文禄年間に増田長盛がが豊臣秀吉の命をうけ、土檀を築きました。その後、明治8年、大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰しました。
  明治41年、近郷有志による楠公誕生地保勝会が組織され、敷地の拡張や休憩所の新築など、史跡の整備顕彰にあたりましたが、終戦とともに活動は衰退してしまいました。
 昭和49年に楠公史跡保存会が有志で組織され、保存顕彰にあたっています。

 千早赤坂村郷土資料館を見学。200円
 この付近を発掘し、14世紀のものと見られる、二重の掘りに囲まれた中世の館城跡がみつかったそうです。


 楠産湯の井戸
  楠公産湯の井戸があります。道際に看板がでています。
 楠木正成(1294〜1336)は、現在も「楠公さん」と呼ばれ親しまれており、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。







 上赤坂城跡
 上赤坂村城入口に到着。
 道路に案内標識があって、進入路に車で入って行きます。
 道路脇に、駐車スペースがあり、車を停めて、上赤坂村城跡へ歩き始めます。
 天気は、曇り。
 ただの山道です。林の中を歩いているので、薄暗くて、おっかないですね。

 途中、道にヘビがでてきました。ヘビがにがてなので、飛びのいて驚きました。

上赤坂城跡遠望
上赤坂城 本丸跡
上赤坂城本丸跡

上赤坂城 本丸跡  上赤坂城は、昭和9年3月に国史跡に指定されました。
 標高349.7m。比高150m。自然の険しい地形を利用した中世山城です。鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成によって築城されたといわれています。
 元弘3年(1333)、平野将監と楠木正季は、多勢の鎌倉幕府軍相手に奮戦しましたが、水路を断たれ陥落しました。糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷」という地名になって残っています。

14:15 上赤坂村城跡の本丸跡へ到着。
 駐車スペースから歩いて20分弱でした。
 本丸跡は平坦になっていますが、それほど広くはありません。クヌギ・サツキの木等が生えています。
 本丸跡からの眺めはよく、千早赤阪村の街並みがよく見渡せます。 ここには当然人は、自分以外誰もいません。


 建水分神社
 少し雨がぽつぽつ降ってきました。

建水分神社  延喜式(905年、延喜5年に醍醐天皇の勅により選進)神明帳に記されている神社を式内社といい、この神社は河内国石川郡内式社9社のひとつです。
 崇神天皇の5年、「天下飢疫の際、勅して創立せらる」とあり、池・溝を設けて農事を勧められ、金剛・葛城のふもとに水の神を祀ったと思われます。
 楠木家は累代この地に居住し、当神社の祭神建水分大神は楠木家の氏神として崇敬篤く、後醍醐天皇の勅命で正成が水越川のほとりに下宮にあった社をここに再建しました。
 本殿は春日造りの中殿(天御中主神)、流れ造りの左殿、右殿(水分神)の三殿より成り、三殿が渡り廊下で連結されています。国重要文化財に指定されています。
南木神社

 摂社の南木神社は、正成の死を悼んだ後醍醐天皇が、正成の子である楠木正行に命じて造らせたといいいます。




 寄手塚・身方塚
 寄手塚・身方塚に到着。小高い丘陵の墓地の中にあります。
 寄手塚・身方塚は、それぞれ10mぐらい離れています。
寄手塚五輪塔
寄手塚
 総高782cmの石造五輪塔。この塔は、元弘1〜3年(1331〜1333)の千早赤阪の戦いで戦死した鎌倉勢(寄手)の霊を弔うために楠木正成が建立したといわれており、「寄手塚」と呼ばれています。
 造立時期は、鎌倉時代後期と考えられ、大阪府文化財保護条例指定されています。



身方塚五輪塔
身方塚  総高137cmの石造五輪塔。この塔は、楠木正成が元弘1〜3年(1331〜1333)の千早赤阪の戦いで戦死した鎌倉勢(寄手)の霊を弔うために建立した寄手塚に対して、味方(身方)の戦死者のために建立したといわれていることから、「身方塚」と呼ばれています。
 造立時期は、南北朝時代前半と考えられ、大阪府文化財保護条例指定されています。




 楠妣庵
 拝観料200円です。


楠妣庵 観音堂

楠木正成夫人の久子の墓

 1348(正平3)年正月、楠木正行兄弟の討死後、楠木正成夫人の久子は、出家して敗鏡尼(はいきょうに)と称し、観心寺の中院からこの地に移って草庵を営み、楠木一族の菩提を弔いつつ余生を送り、1364年7月17日に61歳で死去しました。
 そのあと楠木正儀が亡母のために観音堂を建て、母の墓地も造営したが、足利方の山名・畠山氏に攻められて廃墟となっていました。
 その後廃墟とした草庵跡の復旧が進み、1915年に夫人墓所を、続いて1917年に往時の草庵を復元するとともに、旧本堂の観応堂も完成、地元に伝承されてきた十一面観音を本尊としました。
 その後も再建作業が続けられ、1932(昭和7)年に、北の低地に新本堂(本尊は千手観音)を建立、同年庫裏にあたる思光閣も完成しました。

楠母子の像
 
  1336(建武3年・延元元)年5月25日、湊川の戦いで楠木正成は討死しました。
 足利尊氏より届けられた変わり果てた父の首級をみて一族重臣はみな号泣します。息子の楠木正行は突然立ち上がり、涙をおさえて持仏堂に入り父の形見の菊水の短刀で自決しようとしました。それを母の久子夫人がすかさず正成の手をとらえ、諭し励ましているところであるといいます。



17:10 富田林トヨタレンタカーへ到着し車を返しました。
 富田林駅から電車で京都へ向かいました
21:00に京都市内のホテル到着しました。