平成13年 9月(日)晴れ

 京都駅をJRで、嵯峨嵐山駅へ向かいます。
 嵯峨嵐山駅から歩き始めます。

 長慶天皇陵

 長慶天皇陵に参拝

長慶天皇    1343〜1394.8.1
  在位 1368.3.11〜1383.10以後
長慶天皇皇子 承朝王墓  長慶天皇は、後村上天皇の皇子です。名は寛成(ゆたなり)。母は嘉喜門院勝子。1368(応安元・正平23)年頃に践祚。足利方との徹底抗戦を主張したがかなわず、1983(永徳3・弘和3)年和平派の推す弟後亀山天皇に譲位。南北朝合一後も帰京しませんでした。江戸時代以来、即位説、非即位説がありましたが、在位が確認され、1926(昭和元)年皇統に加えられました。

 長慶天皇の陵墓の隣に、長慶天皇皇子 承朝王墓があります。


 臨川寺

 当分の間拝観中止でした。和尚さんが亡くなったばかりとのこと。(天龍寺で聞いた。)


 嵯峨嵐山の天龍寺に近い桂川沿いに臨川寺はあります。臨川寺は後醍醐天皇の皇子である世良親王の居所を禅寺としたものです。
 後醍醐天皇は世良親王に位を譲ろうとしていましたが、親王は若くして亡くなってしまいました。世良親王の後見であった北畠親房はこの時に出家しました。また臨川寺には天龍寺の開基である夢窓疎石の墓もあります。
 現在、住職が亡くなられて拝観停止になっています。(H13年8月、天龍寺でお聞きしたもの)

 天龍寺
 拝観料600円
 天龍寺は、1864年(元治元年)薩摩兵に焼き討ちに遭い、全山ことごとく灰燼に帰したとのこと。
 後嵯峨・亀山稜が天龍寺にあり、参拝しました。

天龍寺
天龍寺・本堂  本尊は釈迦如来。後嵯峨天皇の亀山離宮があったころに、暦応2(1339)年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建した禅寺です。15世紀前半に最盛期を迎えました。
 夢窓疎石は伊勢の出身で、天性の偉大な布教家で政治手腕にも優れ、足利尊氏・直義兄弟は深く帰依しました。夢窓は両人に勧めて、南北朝対立時代の死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔を建てさせ、また両人の対立の調停、さらに南北朝講和の斡旋にも活躍しました。

曹源池
 当寺開山夢窓国師(1339年)の作庭にして右手遠景愛宕山、小倉山正面亀山、左手嵐山等を借景した池泉回遊式庭園です。

後醍醐天皇聖廟多宝殿
後醍醐天皇聖廟多宝殿 この地は禅秀首傳壇林寺の旧跡として、後嵯峨・亀山天皇の仙居を造営したところです。
 尊治親王(後醍醐天皇)もまたここに修学せられ成人しました。
 後醍醐天皇御尊像を安置しています。


後醍醐天皇供養塚







 宝篋院
 宝篋院に到着 拝観料400円
 お寺としては小さいが、庭園の雰囲気がよいです。秋の紅葉の時期もいいとのこと。
 紅葉は、11月末から12月始めぐらいということです。
宝篋院 宝篋院の庭園
 初めは白河天皇の勅願により創建された善入寺で、中世に夢窓の高弟黙庵禅師が再興しました。楠木正行は黙庵に帰依し、正行が四条畷の戦いで戦死すると、黙庵はその首をここに葬っています。
足利義詮・楠木正行の墓 足利義詮もまた黙庵に帰依し、自分の没後は正行のそばに葬るよう遺言しました。遺言は実行され、義詮の法号をとって現寺号としたものです。
 左方の三重石塔が義詮、右方の五輪石塔が正行の墓であるが、ともに鎌倉時代のもので、ほかから移したらしいとのこと。寺宝に絹本着色足利義詮像(国重文・南北朝)があります。



 清凉寺

 山門が江戸時代のもの。お寺の建物の中には入りませんでした。
 豊臣秀頼の墓があります。



 滝口寺

 新田義貞の墓、勾当内侍の墓を見学。

新田義貞公首塚碑

新田義貞首塚碑
新田義貞首塚碑
 義貞は、1338(暦応元)年越前藤島で戦死し、その首は京都でさらされた後、義貞の寵姫勾当内侍が嵯峨の往生院に葬ったといいます。義貞の臣下の後裔で歌人の渡忠秋の遺志を継いで富岡鉄斎ら有志が1894(明治27)年に建碑、さらに1932(昭和7)年にそのわきに勾当内侍の供養塔が立てられました。
勾当内侍の供養塔
勾当内侍の供養塔



 後亀山天皇陵

後亀山天皇
後亀山天皇嵯峨小倉稜  後村上天皇の皇子。名は煕成(ひろなり)。長慶天皇の皇太弟となり、南朝和平派の公家に推され、1383(永徳3・弘和3)年頃に践祚。1392(明徳3・元中9)年足利義満からの和平の申し入れに対し、譲国の儀式による神器授受、両統迭立、諸国国衙領の大覚寺統統轄などを条件としてこれを受け、同年閏10月入京、北朝の後小松天皇に神器を譲り上皇となりました。しかし三条件は守られず、1410(応永17)年吉野に潜行しました。1416年に帰京。吉野から帰洛してこの地に隠棲しました。

次は、大覚寺へ

 大覚寺
 拝観料500円
 大沢池をの周囲を歩いた。

  大覚寺  真言宗大覚寺派の大本山、門跡寺院で嵯峨御所ともよばれた。華道嵯峨流の家元でもあります。本尊は五大明王。もと嵯峨天皇の離宮嵯峨院(離宮形式の寺ともいう)で、大沢池を苑地としました。嵯峨天皇は譲位後の834(承和元)年冷泉院からここに移り、842(承和9)年に没するまで皇后橘嘉智子(壇林皇后)と過ごしました。
大沢池 
鎌倉時代には後嵯峨、亀山、後宇多上皇などの歴代の法親王が院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれました。
 1392(明徳3)年の南北朝講和は大覚寺で行われた。その後応仁の乱などの兵火で廃れますが、信長・秀吉らが寺領を寄進して復興にむかい、また後水尾天皇は皇弟・皇子を入寺させ、御所の旧殿を下賜してほご今日の寺観に復しました。

 御冠の間(南北朝講和の間)

御冠の間・南北朝講和の間 南北朝講和の間とも云い、南朝の後亀山天皇が、ここに北朝の後小松天皇を招かれて皇位を譲られた所です。
 また、後宇多天皇は僧形にて国政を親裁せられた際に御冠を置かれたので御冠の間ともいいます。
 玉座の後の武者隠の山水は狩野元信の筆、蒔絵は鳳凰竹に桐で「嵯峨蒔絵」。表二間は狩野永徳の竹、桜、障子の腰板の絵は尾形光琳の筆。

大覚寺を出て、門前からバスを乗り間違えて、阪急嵐山駅まで来てしまいました。
歩いて、京福嵐山駅へ。
途中で乗り換えて、
等持院で下車。


歩いて等持院へ向かいます。

 等持院
等持院には、足利将軍歴代の木像があります。


等持院からずっと歩いて来ました。途中で道を間違えて、迷いそうになりました。


 名和公園

 碑は、昭和14年4月建立。


 名和長年は、南北朝時代の伯耆(鳥取県)の豪族です。1333年に配流先の隠岐から脱出した後醍醐天皇を船上山に迎え、来襲する幕府軍を退けました。これによって天皇のあつい信頼を得、建武の新政権では伯耆守、恩賞方衆、記録所寄人などの重要な地位につきます。しかし、九州から攻め入った足利尊氏とこの地で戦って敗れ、戦死しました。(内野合戦)


 市バスに乗り京都駅へ向かいます。
 小雨が降ってきました。通り雨のようです。
 京都駅の駅ビルで、生ビールを飲みながら夕食を食べました。
 京都駅から、タクシーでホテルへ帰ります。

19:10 ホテル着