平成13年10月 (日) 曇り

 近鉄線 大和八木駅へ。
 トヨタレンタリースで、車を借ります。
 今日は、吉野方面へ向かいました。

 西吉野村和田に到着。
 賀名生小学校前の信号を左に入って、すぐに駐車場があります。公衆トイレもあります。
 そこで、車を止めて路地を歩いてゆきます。
 少し歩くと賀名生皇居跡に着きました。


堀家住宅(国重文) 皇居跡
 南朝3代の天皇の皇居と伝えられます。
 門・主屋とも茅葺きの重厚な感じの建物です。
 門は二階門、母屋は入母屋造で室町時代の創建と伝えます。門に掲げる「皇居」の扁額は天誅組総裁の吉村寅太郎の筆になります。


堀家の藁葺門

南朝皇居跡・堀家住宅

 延元元年(1336)12月21日、後醍醐天皇は京都花山院を脱出、23日賀名生に着き、ここを皇居とされました。28日には吉野山に潜行しています。
 正平3年、高師直の率いる北朝軍が吉野山に乱入したので、後村上天皇は逃れて、9月頃賀名生の皇居にいられ、時に住吉・観心寺・天野山金剛寺に、一時は京都に還幸されました。
 現在の堀家は皇居の跡です。堀家には南朝関係の遺品の記録及び天誅組浪士帖等多数の宝物が現存しています。


賀名生皇居跡
 堀家の背後の丘陵上が、黒木御所がつくられた所と伝えられています。
 堀家住宅から、先に歩きます。丘陵上を登ってゆくと、五条高等学校 賀名生分校があります。その脇の高台に北畠親房の墓があります。高台には、もみじの木がありましたが、まだ紅葉には早かったです。


賀名生皇居跡

賀名生皇居之址

北畠親房の墓  
 丘陵上の一番高い所にあり、玉垣に囲まれた円墳の上に五輪塔が立っています。これが北畠親房の墓といわれています。

北畠親房の墓

北畠親房の墓・五輪塔

二百十人塚

 延元正平の昔、宇智、吉野更に四条畷にまで敢然と起って戦い壮烈な最期をとげた郷土の忠臣二百十人の忠魂を弔い、その冥福を祈り、延徳三年西俊、珍阿の両名が本願となりこの石塔を建て供養したもので、古くからから二百十人塚とよんで語り伝えられています。



 R168を走ります。 ずっと狭いワインディングロードが続きます。トンネルも多いです

 途中、道の駅 吉野路大塔で休憩しました。
 郷土資料館の入口に護良親王の銅像が建っています。

 十津川村の北端に近い上野地には、対岸の谷瀬の集落との間に長さ294m、高さ54mの谷瀬の大つり橋がかかっています。鉄線橋では日本一といわれています。
 この橋を渡ったところに護良親王の黒木御所と伝承する所があります。
 つり橋を渡ろうかどうか考えたが、車を止めるのが有料だし、お金をだして、わざわざ高くておっかない所を渡るのがいやなだから、対岸に車で渡れる橋を見つけて、車で行きました。


 護良親王の黒木御所  十津川村 谷瀬(たにぜ)
 国道168号線の対岸の山腹に、ひと際松柏を茂らせて、護良親王の黒木御所跡と伝承する所があります。親王が十津川潜居の間、竹原八郎や戸野兵衛の支持ををうけてここに住み、政権の回復の策をめぐらせたといいます。


大塔宮護良親王の黒木御所

黒木御所は、吊り橋を渡った対岸にあります。

 大塔宮護良親王が元弘元年10月、赤坂城を脱出され高野山を経て十津川に逃れられたとき、十津川の豪族竹原八郎はこれを迎え入れ、仮宮殿を建ててかくまったところと伝えられています。
 明治22年の大水害までは、当時、宮及び従臣が弓術、馬術を練習したところ並びに竹原八郎の墳墓といわれる五輪の塔などがありましたが、現在は河底に埋まっています。なお、このところは、かつて天誅組が幕軍を迎えて決戦を試みようとしたところでもあります。


 国王神社

国王神社
 国道168号線の十津川に突き出した断崖の下に国王神社があります。
 神社は、杉の茂る断崖の下の熊野川河畔にあり、国道からは見えません。
 神域は何百年もの杉の大木がそびえています。
 祭神は南朝3代長慶天皇で、創建は1373(文中2)年と伝えられています。
 国王神社は南帝陵ともいわれ、長慶天皇の御陵墓の地とも伝えられています。


十津川村役場手前を左に曲がり、湯泉地温泉へ向かってゆきます。
途中、右手に曲がる道があり、そこを曲がって2kmほど登ってゆきます。
車同士がすれちがいできない、車1台通るのがやっとの道が続きます。片側が谷になっているので、おっかないです。
 楠木正勝・佐久間信盛の墓がある、武蔵の集落に着きました。
小学校で、集落の運動会が行われていました。



 楠木正勝・佐久間信盛の墓
 光明寺跡にある。長盛山光明寺といい、鎌倉時代に創建された禅寺でしたが、明治4年、廃仏毀釈によって十津川郷内の他の寺院と共に廃寺となりました。十津川に寺院が全くないのはそのためで、ここも墓だけが残っています。
 ここに、楠木正勝、佐久間信盛の墓があります。

楠木正勝の墓


 正勝は正成の孫で金剛山落城の後、弟正元と十津川に来て兵を募り再起を図りましたが、病にかかり応永11年正月15日にこの地で亡くなったと伝えられています。





佐久間信盛の墓

 信盛は、織田信長の重臣で大阪石山本願寺攻めに活躍した武将です。しかし、織田信長に、過去の過ちを指摘され高野山に追放されました。
 その後、この地を訪れ亡くなったと伝えられています。楠木正勝の墓のすぐ後ろにあります。








R425を走ります。R425は国道ですが、林道と同じようなものです。
カーブが連続する道を延々と40km以上走りました。
走り初めは、川の上の断崖を通っています。
道巾は狭く、カーブばかりで、少しも気を抜けません。カーブで対向車が来たら、ぶつかってしまいそうです。しかし、全然対向車が来ません。
登りになり、断崖上のルートになりました。携帯電話の電波も全然入らないところです。
こんなところで事故ったら、最悪です。警察に電話もできない。
アクセルとブレーキを交代交代に踏みっぱなしで、右足膝から下の筋肉がつりそうになってきました。違う道を通ればよかったと後悔しました。

崖際の石が崩れて、道をふさがれていたら、Uターンするのも難しいでしょう。同じ道を引き返すを考えただけでも、うんざりします。

 下北山村へでました。やっと、人家がある所を走ります。
 川上村へ向かいました。

 川上村 金剛寺へ。
 R169から、右手に入ってゆく道がわかりずらいです。

金剛寺へ。
お寺には、誰もいない。暗くなってくるし、少しこわい感じがします。

 金剛寺
自天皇の墓があります。


 金剛寺の本堂は、入母屋造・瓦葺の建物ですが、全面2間が吹き通しになっている珍しいお堂です。本堂の左に、後南朝の尊秀王(自天王)墓所があります。右後方には自天親王神社があり、自天王と忠義王を祀っています。


 後亀山天皇の皇孫尊義王は北朝足利幕府の対応に不満をもち、尊秀王・忠義王の2王子と神璽(しんじ)を帯同して、川上村の奧の三之公(さんのこ・現川上村神之谷)に身を移しました。
 1454(享徳3)年尊義王の病死後、2人の王子は郷士に守られて川上村の神之谷と上北山村の小橡に分かれ住んで再起の機会を待っていましたが、もと播磨国守護赤松氏の残党の襲撃をうけて殺害されました。寺尾の集落で自天王の首を奪還した郷士らは、三之公の御所で毎年行っていた年賀の朝拝式を、王亡き後も王の遺品の甲冑の前で行っています。
 現在も、王の命日2月5日に筋目(郷士の家筋)の家柄の人たちによって後朝拝式が行われています。


奈良の橿原市内へ向かいました。途中が道が混んでい途中が道が混んでいた。た。
19:20 トヨタレンタリース橿原へ到着。車を返しました。