平成14年 5月25日(土)晴れ

この日は、ホテルからバスを乗り継いで、京都市北部の一乗寺下り松で、バスを下車しました。

 大楠公の碑

 楠木正成戦陣蹟碑は、昭和20年5月に建立されています。碑によると『太平記』巻十五にいう建武3年(1336)正月27日の合戦で「楠木・結城・伯耆三千餘騎にて西坂を下々て下松に陣を取る」と記された陣の跡といいます。


市街地をはずれて、比叡山へ登るための道へ向かっていきます。

11:30 きらら坂入口
 雲母坂(きらら坂)
 雲母坂は、平安時代より比叡山と都を結ぶ主要路として賑わい、都からの勅使が通ったことから勅使坂とも呼ばれました。また、法然、親鸞らの名僧をはじめ多くの人たちもこの坂を行き来しました。
 比叡山の山法師が、日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押し掛けたのもこの道とされ、南北朝の戦乱では、この坂が戦場となり多くの将兵の血に染まったといいます。

11:40 登りが始まります。
 谷の間のような山道を登って行きました。人がすれ違いできないほど、道幅は狭いです。
 乾いた落ち葉がたまっていて、すべりやすく歩きにくいでした。


下り坂になり、また、ゆるやかな上り坂になります。
だんだん、登るのがきつくなってきました。



12:15 水飲対陣跡へ到着。
 水飲対陣之跡石碑

 延元元年(1336)、足利尊氏の攻撃から比叡山へ逃れた天皇を擁護するために戦いがありました。その場所を水飲対陣之跡といいます。

杉林の中を歩いてゆきます。

千種忠顕戦死の地の碑へ到着。わかりくにくかったです。

 千種忠顕戦死之地の石碑

 千種忠顕は後醍醐天皇に仕えた公家で、建武の新政の三木一草の一人に数られています。後醍醐天皇が元弘の変で敗れ隠岐へ流された時も一緒にお供していきました。
 千種忠顕は延元元年(1336)、足利方との戦いにおいて、この地で戦死しました。


13:01 ケーブルカー駅へ。休憩。

13:12 出発。
いい加減疲れてお腹がへってきました。
こんなに比叡山を登るのに時間がかかるとは思いませんでした。
比叡山は848mで、筑波山とそれほど変わらないののですが。
京都市外の平地から登り始めたので、アプローチが長かったせいでしょうか。

 やっと下り坂になってきました。
13:53 やっと比叡山 延暦寺 根本中堂へ。到着。
延暦寺境内にある観光客向けの食堂で昼食をとりました。