平成15年 5月 4日(日) 晴れ

 書写山 円教寺
西の比叡山と呼ばれる書写山は、姫路市の北西部にある標高300m余の山です。
登山道はありますが、ロープウェーが便利です。
山上駅から書写山円教寺(天台宗)までは歩いて約20分ぐらい。
円教寺は966(康保3)年に性空(しょうくう)上人(910〜1007)が開いた天台宗の道場です。
摩尼殿
 昭和の再建ですが、巨大な舞台造で、本尊如意輪観音と木造四天王像(国重文)が安置され、西国三十三所観音霊場第27番札所となっています。
大講堂・食堂・常行堂の3棟は「三つの堂」と呼ばれ、広場をコの字型に囲んでいます。

食堂は宝物館となっています。
常行堂 (国重文)
本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
像高251.0cm。性空の弟子の安鎮により寛弘2年(1005年)頃に造立されたもの。
大講堂 (国重文)
釈迦三尊像(国重文)を安置しています。

 広峰神社
  広峰神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・五十猛(いそたける)命・奇稲田姫(くしなだひめ)を祭神とする。一般には牛頭天王を祀るとされ、733(天平5)年、吉備真備が朝廷に願い出て建てたのが始まりといわれています。 
平安時代には皇族の崇拝も厚く、869(貞観11)年、京都に悪疫が流行したので、清和天皇が広峰神社の分霊を京都八坂の祇園に祀ったところ、悪疫は退散したという。この京都の社が祇園社の起こりとされます。
拝殿 (国重文)
室町期の建物を、江戸初期に姫路城主本多忠政が大修理をしたもの。入母屋造り、檜皮葺き、桁行き11間。
標高300mの山上から、姫路市街が一望できます。

 随願寺 
 随願寺は聖徳太子の命により高麗僧・恵便が開山し、のちに行基が中興したもので、播磨六山の一つとして、姫路市内では最古の寺と伝えられています。
随願寺は、始めは法相宗でしたが834年(承和元年)に天台宗となり、古今を通じて皇族、貴族、武士の信仰を集めていました。
平安時代に諸堂が整備され、山上には36坊もある大寺でしたが、1573年(天正元年)別所長治に攻められ全山を焼失し、1585年(天正13年)に秀吉によって再興されました。

 一乗寺
 法華山一乗寺は、寺伝ではインドより日本に飛来した法道仙人が開いたと伝えます。
 中世には、書写山円教寺などとともに播磨国6ヶ寺の一つとして、武家・国衙がともに祈願所とする大きな存在でありました。
三重塔(国宝)
残された銘から平家全盛の平安時代末期の1171(承安元)年に建築が始まり、数年後に完成したことがわかっています。

屋根の上の相輪と塔全体のバランスがよく古風を残す美しい塔です。

 光明寺
 光明寺は、594(推古天皇2)年、法道仙人開基と伝えられる古刹です。
 光明寺は京と播州を結ぶ交通の要衝であった関係から、たびたび合戦の舞台となりました。

 浄土寺
所在:小野市浄谷町2094
 浄土寺の浄土堂(国宝)は、鎌倉時代、建久年間(1192〜1197年)に重源上人が建立した大仏様の建物です。
 堂内には仏師快慶作の巨大な阿弥陀三尊立像(国宝)があります。
 阿弥陀三尊像には、感動しました。大きな仏像で、さながら極楽浄土を感じました。

 安国寺
安国寺は臨済宗のお寺です。元々足利直義が中心となって日本全国の国ごとに1寺1塔をつくらせた安国寺・利生塔の一つです。
寺伝によると、開山は固山一鞏(いつきよう)で、1339(暦応2)年に創建されたといいます。
本堂前に、素敵な枯山水の庭があります。
本堂の裏に、「義教の首塚」と伝えられている宝篋印塔があります。1441(嘉吉元)年6月嘉吉の乱で、謀殺された足利義教将軍の供養塔として建てられたものと考えられています。

 三木城跡
 三木市内に入り、三木城跡を探すがなかなか見つかりません。
 やっと見つけて三木城跡を見学しました。

 天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。当初は、播磨の小寺氏や別所氏など有力武将は、織田方に味方していました。しかし、毛利氏の庇護にあった前将軍義昭の策謀により、別所長治を中心に播磨の武将は、天正6年、織田方に反旗を翻し、これにより三木合戦が開始されました。
 秀吉は、兵力が消耗することを避け、三木城の周囲に付城を築き包囲する干し殺しの作戦を用います。食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しみ悲惨な状況であったと云われ、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城しました。


 本丸跡に別所長治辞世の歌碑があります。
 「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」