九州は,日本の中では首都・東京から遠い地域です。それも,海で本州と隔てられています。距離から考えても、ちょっと本州・九州では考え方が違うこともあるかもしれません。
 現在,日本列島には,日本という一つの国家しか存在しません。
 しかし,昔はこの日本列島に,同時にいくつかの国家(政権)が存在した時期がありました。その一例が,室町時代前半の南北朝時代です。京都に北朝・室町幕府があって,奈良吉野に南朝政権が並立していました。
 そして,九州には独立した国が存在していました。それが,後醍醐天皇の皇子・懐良親王(征西将軍)を首班とした九州南朝王国でした。懐良親王の王国は,ほぼ九州を統一し、中国の明からは日本の国であると公認されていました。
 今回の旅は,懐良親王を中心とする南北朝関係の史跡を廻る旅です。

平成15年11月23日(日) 晴れ

少し、空には雲があります。車で羽田空港へ向かいました。
羽田ICから下に降りて、羽田民間駐車場へ車を停め、空港までマイクロバスで送ってもらいます。。
5:30 羽田空港着
6:40 スカイマークエアラインの飛行機に乗って羽田を離陸しました。
 最初は雲多かったが、三重県上空を過ぎるあたりから陸地がよく見えるようになりました。
8:17 福岡空港 到着 福岡は快晴です。
 空港の建物から出て、レンタカーの会社にTELしました。
 10分ぐらいで、レンタカーの会社の人が車で迎えに来てくれました。
9:00 レンタカーで出発。

 太宰府
 太宰府政庁跡に到着。以前、平成4年に1度来ていますが。久しぶりです。空は晴れています。政庁跡は、草地でところどころ礎石があり、広い区域です。

 古代、西海道と呼ばれた九州一円を統括していた太宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていました。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していました。
 しかし、遠の朝廷(とおのみかど)として、繁栄を誇った太宰府も平安時代末期頃(約900年前)にはその役割を終え、田畑と化しました。

 車で観世音寺へ。
 観世音寺
 観世音寺は天智天皇発願の寺です。百済救援のために九州に遠征した天智天皇の母・斉明天皇が、 661年筑紫で崩御された。その菩提をとむらうために創建されたものです。
 来日した唐の僧鑑真や留学より帰国した空海は、まず観世音寺に滞在して、上洛の日を待っていたといいます。
火災や台風などで往時の面影はなく、現在の建築物は江戸時代、黒田氏によって再建されたものです。

 戒壇院
歩いて戒壇院へ。昔ここにも来た覚えがあります。
 奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれました。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒律を受けなければ正式の僧尼とは認められませんでした。昔は、お坊さんは国家公務員だったのです。
 戒壇はここのほかに、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺に置かれ、天下三戒壇といわれました。



 筑紫野ICから九州自動車道に乗りました。鳥栖JCTの手前2kmぐらいまで7kmぐらい渋滞していました。
 久留米ICで高速を下ります。カーナビで案内される道を走っていますが、道が狭いです。対向車が来るとすれ違いできません。



 千光寺

 千光寺は、筑後国在国司草野永平が建久3年(1192)に臨済宗の開祖 栄西を招いて開山したという曹洞宗の古刹です。




 懐良親王の宝篋印塔
 千光寺には、懐良親王の御陵墓があります。
 懐良親王は、後醍醐天皇第16皇子で、征西将軍宮として九州の地で活躍しました。
 菊池氏を主力とする九州南朝勢に擁されて、正平14年(1359)8月、史上に名高い大保原の戦に勝利し、遂に太宰府を陥して、征西府を置きました。
 しかし、千光寺にはそれとは違う言い伝えがあります。
 正平14年(1359年)、大保原の戦の後,深傷をおわれた懐良親王は、千光寺に程近い谷山城に引揚げられたが、手当の甲斐なく8月18日死去しました。そして,火葬にされ,千光寺に葬られたというものです。

 杉木立の日が差し込まない中に懐良親王供養の宝篋印塔がありました。そこから右の方に歩いてゆくと階段があります。その階段を登ってゆくと平野を見渡せる高台に懐良親王墓所があります。

  懐良親王の御陵墓
 この陵墓は宮内庁管理ではありません。宮内庁管理ではないということは,宮内庁は、懐良親王陵墓と認めていないということでしょうか。
 宮内庁が管理している懐良親王の御陵墓は、八代市にあります。
 少し風があり、日陰に入ると気温も低いので寒いです。



 高良山へ登ってゆくワインディング道路を走ります。

 高良大社

 高良大社本殿・幣殿及び拝殿(いずれも国重文)は、第3代藩主有馬頼利が1659(万治2)年から3年の歳月を費して造営寄進したものです。

 車を停めて、急な階段を登ります。
 高良大社に参拝しました。
 七五三のお参りに来ている家族連れが多いです。記念写真を撮っている家族が多いです。



 高良山の駐車場からみた筑後平野
 車に戻り、高良山へ向かいます。
 ワインディング道路をさらに登ってゆくと、左手に大きな駐車場があるので,車を停めます。
   駐車場には展望所があり、天気がいいので,筑後平野とまわりの山並みがよく見えました。ここでも人が多く、家族連れが多いです。


 毘沙門岳城跡

 道路を歩いて横切り,駐車場と反対側の高良山へ。
 高良山は公園化されています。ツツジの植え込みがあったり、芝生が植えられています。休憩所もあります。
 高良山には毘沙門岳城跡があります。ここから歩いてすぐ、頂上まで登れました。空堀跡があります。


 星野村へ向かいます


 八女郡 星野村 大円寺 到着。

 大円寺
 大円寺は、南北朝時代の懐良親王にゆかりがある寺です。
 懐良親王は、後醍醐天皇第16皇子で、征西将軍宮として九州の地で活躍しました。正平14年(1359)8月、史上に名高い大保原の戦に勝利し、同16年8月には遂に太宰府を陥して、征西府を置きました。以後、足かけ12年、名実ともに全九州を統率しましたが、文中元年(1372)8月、九州探題今川貞世(了俊)によって太宰府を追われます。
 太宰府より高良山へと征西府を移しながら、再起を図りますが、南朝勢衰退の流れを止めることはできず、この星野谷に退き大円寺に入りました。
 懐良親王は、両親をはじめ戦いにたおれた将兵の菩提を弔い、南朝再興を祈り続けたが、弘和3年(1383)3月27日、御年55歳で薨去されたといいます。


 懐良親王のお妃のお墓があります。お墓の墓石自体は新しいです。






 懐良親王の墓所に向かいます。林道を走っていくと、墓所まで3.5kmの標識がありました。道は狭いが、舗装されています。杉の葉がたくさん道に溜まっています。
 林道を2.5kmぐらい登ると道が二股に分岐しています。左手が上る道で舗装されていません。右手の道は下りの道で舗装されています。荒れている道を走るのがいやなので、舗装されている右手側の道に入りました。やがて、懐良親王墓所の標識がありましたた。右の道路を選んでよかったです。

 懐良親王墓所

 懐良親王墓所の墓石自体は新しいです。もう夕暮れに近づいてきて、日陰は直射日光は差し込まないので薄暗いです。ツツジの植木が墓の周囲にあり,さらにその周りは杉山になっています。本当に山の中です。





 矢部村地内を、カーナビ通りに走っていたら、間違った道に行かされてしまいました。カーナビの地図が古いのでしょうか。だんだん日が暮れてきて、時間との戦いになってきました。

福岡県 矢部村 大杣公園に到着。
 良成親王墓所
 良成親王墓所を見学。大杣公園内にあります。
 良成親王は、第97代後村上天皇の第6皇子で正平22年(1367年)わずか5、6歳にして、叔父の征西将軍懐良親王の留守居役として太宰府へ下向されてきました。
 それから8年後の天授元年(1375年)14歳の頃、懐良親王から将軍職を譲られ、後征西将軍となりました。
 元中8年に五條頼治を頼られ、天嶮であるこの大杣の地をご在所されました。
 南北朝合一後も南朝再興を図りましたが、元中12年、35歳ぐらいで、この地「大杣御所」にて、再興の願い虚しく、亡くなられたといいます。
 明治11年5月、宮内庁よりこの地を御墓所と認定されています。



薄暗くはなってきましたが、完全には暗くなっていません。九州は日が関東よりも日が長いようです。17:20ごろでも完全には暗くなっていません。30分以上は、日が長いようです。

現在、福岡県の端の方にいますが、これから熊本県熊本市へ向かいました。

19:40 熊本市内のホテルに到着。
 今日一日で、 256km走ったことになります。
 ホテルにチェックインしてから、駅の方へ歩いてゆき、定食屋に入りビールを飲みながら、ちゃんぽんとおでんを食べました。