平成15年11月24日(月) 晴れ  雲一つ無く晴れていますが、寒いです。
ホテルを車で出発。菊池市に向かいます。



 菊池神社

 菊池神社に参拝。
 参拝者は、七五三のお祝いや、観光客の団体が来ています。
 菊池神社社は明治3年に創建され、南朝に忠誠を尽くした菊池武時・武重・武光父子三公を主神に、菊池一族の戦没者を祀っています。

 資料館を見学しました。入館料300円。

 菊池神社がある地には、かつて中世の城・守山城がありました。
 守山城は雲上城ともいわれ、中世の築城で自然の要害を巧みに利用した山城でした。
 ここから太宰府に征西府を進めるまでの17年間、菊池一族の根拠地となりました。
 守山城が本城となったのは、第15代菊池武光公の頃といわれます。

 菊池神社から、歩いて雲上宮へ向かいます。  若干、距離が離れており、小高い山の上にあります。だれも人はいませんでした。

 雲上宮
 この地は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子懐良親王と後村上天皇の皇子良成親王の御在所跡です。
 昭和44年両王を祭る雲上宮が創建され,「征西将軍宮跡」と刻した碑が建っています。


 正観寺

 正観寺は、思っていたほど大きくないです。寺域もそれほど広くないです。昔は寺域も広く伽藍も大きかったのでしょう。



 正観寺は、南北朝時代、十五代菊池武光が、大方元恢和尚とその師である秀山元中和尚を招き、興国5(1344)年に寺領66町を寄進し、開山したものです。
 菊池氏全盛の頃は末寺十数寺を抱え、全国十刹の一つに数えられた西国屈指の大きな寺でした。

 菊池武光公の墓所
 正観寺には、菊池武光の墓があります。
 南北朝の争乱期、後醍醐天皇は九州に南朝の勢いを盛り返そうと、征西将軍として懐良親王を派遣しましたが、足利幕府の勢力が強いなかで、親王を迎え入れたのは菊池武光でした。
 懐良親王は,武光の協力によって正平20年(1365)には九州を平定し、太宰府に征西府を樹立します。
 文中元年(1373)幕府は今川了俊を派遣し大攻勢に転じました。この攻防戦で武光は、翌2年に没したと伝えられます。
 この墓は安永8年(1779)、湊川の楠木正成の墓を模して建てたものです。


 東福寺
 東福寺は天台宗延暦寺正覚院の末寺で、天慶元年(938)證慶法印の開基といわれ、かつては寺領25町歩、末寺も15か寺を数えました。
 菊池15代武光の代、菊池五山が制定されたとき東福寺も五山の一に列せられましたが、慶長6年(1602)肥後が加藤清正の統治下にあったとき、寺領はすべて没収され末寺も失いました。




 境内には多数の石造文化財がありますが、なかでも菊池12代武時とともに博多の北条館に討ち入り戦死した弟・覚勝の墓といわれる五輪塔、足利氏と戦って大渡橋で討ち死にした菊池武村の五輪塔は市指定の文化財となっています。




 菊池武重の墓
 元弘3年(1333)九州探題北条英時を討つべしと後醍醐天皇の命を受けた菊池12代武時は、小弐・大友氏に裏切られながらも単独で博多の探題館に討ち入ることを決意し、長子武重を呼び「故郷に帰り菊池家を再興せよ」と命じました。



 武時ら全員が博多で討死にしたなかで13代を継いだ武重は、残った一族兄弟らの結集を図るため、合議制による団結を説いた「寄合衆内談のこと」をつくり菊池家の家憲としました。
 菊池武重の墓も、武光の墓と形が似ています。





 菊池公園
菊池公園へ。

 広場に人はあまりいないです。
 公園には、直売所、観光案内所があります。
 馬に乗って駆けている、勇ましい姿をした菊池武光銅像が広場の中央にあります。





 将軍木

 将軍木へ。菊池高校の入口の隣にあります。
 将軍木は、根回り約10m、幹囲約8m、枝張りは東西24mに達する椋の巨木です。樹高は16mとさほど高くはないが、樹齢は600以上と推定されています。
 この木は、南北朝時代、征西将軍宮懐良親王が、当時勢力のあった菊池氏を頼りこの地に西政府を置かれたとき、宮の杖から芽をふいたとも、御手植の木とも伝えられています。将軍木の名も、この懐良親王のちなんでつけられたものです。

 八代へ向かいます。

 八代神社

   八代神社は、妙見宮とも呼ばれ、上宮、中宮、下宮の三社よりなり、本社はその中の下宮です。
 八代神社は、文治2年(1186)八代平野の要の位置にあたるこの地に建立されました。
 現在の建物は、元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に本格的に改築されたものです。社殿は県指定の重要文化財になっています。
 11月中旬にある祭礼は九州三大祭りの1つに数えられ、神事の神幸行列は県の無形民族文化財に指定されています。
 ちょうど,昨日は神社のお祭りだったそです。


 懐良親王陵墓

 懐良親王陵墓へ。人はだれもいないです。
 懐良親王は,征西将軍宮として九州の南朝方を指揮しました。
1336年吉野を発ち九州へ向かい,12年かかって,やっと,1347年肥後菊池入りした。ここを本拠地とし菊池武光ら菊池一族とともに筑後攻略を開始、ついに筑後川の合戦で小弐頼尚を破って念願の大宰府に征西府を移しました。その後約10年は征西府勢力の黄金期で,九州探題として派遣された斯波氏・渋川氏を退け、大宰府の行政組織と菊池氏の軍事力を背景に一種の独立王国を形成しました。
 1372年、九州探題今川了俊により大宰府を攻略され、筑後高良山,さらに肥後菊池へ退きます。
 懐良親王は征西将軍職を良成親王に譲り(後征西将軍宮)筑後矢部の山中に隠退、この地で没したといいます。


 八代城跡・八代宮

八代城跡へ。
 征西将軍宮懐良親王が、菊池入りの直前に逗留した地であり、そして征西府が衰退し、後征西将軍宮良成親王が、最後の征西府を置いた地です。征西府の始まりと終わりを見た土地です。そのゆかりから明治13年、この地に官幣中社として八代宮創立が許されました。



城跡に八代宮がある。建武中興十五社の一つです。
 建武中興十五社は、後醍醐天皇とその忠臣達を祀る神社です。



 八代ICから九州自動車道に乗り、福岡へ向かいました。
 久留米から筑紫野の間、10kmぐらい渋滞していました。三連休の最後の日なのでしょうがないです。

19:20 福岡市内のホテルにチェックイン。今日の走行距離は、305.5kmでした。