12月下旬 曇りのち晴れ

JR山陰本線で、京都駅から亀岡駅へ向かいます。
亀岡駅で降りて、トヨタレンタカー亀岡店へ歩いていきます。

レンタカー ビッツを借りて、出発しました。
天気(空は)はガスっていて曇りです。
畑・田には、先週降った雪がまだ溶けずに残っています。
京都市内には雪はほとんどなかったのに、同じ京都府でも北部は違います。


京北町を目指します。
走っているうちに、だんだん晴れてきました。
国道R477号線を走ります。R477号は、林道のような道で道幅が細いです。車がすれ違えない箇所があります。そんな時は、道幅が広いところで待っているしかないです。
 また、先週末に降った雪が、山の中なので道路にまだ残っているところがあります。おっかないです。
 一応、レンタカーは、スタッドレスタイヤを履いていますが、タイヤはすべりやすいです。


 常照皇寺に到着。駐車場に雪がだいぶ積もっています。


 常照皇寺   京都府 北桑田郡 京北町
 常照皇寺は、室町時代前期北朝初代の光厳法皇によって開かれ、以来600年余り歴代天皇との深い関わりによって、今に伝わる由緒ある寺院です。

 付近は、京都府歴史的自然環境保全地域として指定されています。古くから寺の所有林として豊かな自然が保持されてきた地域で、ツガ林、モミ・ツガ林、ゴヨウマツ林等の優れた自然環境と境内の勅額門、怡雲庵(開山堂)、方丈、舎利殿などの歴史的遺産が密接に結びついて歴史的風土を保持しています。

 また桜も有名で、一重と八重が一枝に咲くという「御車返しの桜」や、「九重桜」などの名木が咲き誇ります。
 この御車返しの桜・九重桜は、樹齢600年を超す古木の桜です。




 光厳天皇陵
 常照皇寺には、光厳天皇陵があります。
 名は量仁(かずひと)。光厳天皇は持明院統の正嫡で、14歳の時後醍醐天皇の皇太子となり、19歳で北条高時に推されて天皇となりますが、1年9ヶ月で建武新政のため廃帝となりました。
 3年後に足利尊氏に推され、上皇として院政を行いましたが、南北朝内乱期に南朝に捕られられ吉野賀名生・河内金剛寺で5年間幽囚生活を送ります。この間に出家し、許されて帰洛後は戦死者の霊を弔って各地をめぐり、1362(貞治元)年この地に草庵を結んで隠棲、2年後没しました。

 綾部市に向けて出発します。
 国道162号線 周山街道、府道12号 綾部宮島線、 国道27号線と走ります。

 綾部市 安国寺 到着

 安国寺   京都府 綾部市
   安国寺は上杉氏と関係があります。安国寺の前身の寺は上杉氏の菩提寺でした。もともと上杉氏は、藤原氏の一族で、鎌倉時代宮将軍とともに鎌倉に下り、足利将軍家と関係が深いため、室町時代には関東管領となりました。
 上杉謙信は、戦国時代の武将ですが、もとの名字は長尾でした。関東管領 上杉憲政から上杉氏の名跡と関東管領を譲られ、政虎と改名。のち輝虎と改め、剃髪して不識庵謙信と号しました。

 安国寺は西暦4年(993)ごろ開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称します。建長4年(1252)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とすることとなりました。その後、光福寺は上杉氏の菩提寺となり釈迦三尊を合わせ祀りました。
 嘉元3年(1305)足利尊氏の生誕によって、安国は上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになりました。暦応元年(1338)足利尊氏は夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とし諸国安国寺の筆頭において安国光福寺としたものです。

安国寺 仏殿
安国寺の伽藍は、享保20年(1735)6月の山津波で裏山が崩れ、仏殿のほか諸堂を倒壊し埋没したあと整地したのが現在の寺地です。仏殿は、寛保3年(1743)に再建されたものです。
堂内には国指定文化財の木造釈迦如来及び両脇侍坐像を本尊とし、右側には国指定の木造地蔵菩薩半跏像も安置しています。
 昭和63年4月15日 京都府指定文化財

足利尊氏・登子・清子の宝篋印塔
 この宝篋印塔は南北朝時代のもので、墓碑として建てられた供養の塔であります。向かって左が尊氏の母清子、中央が足利尊氏、右側が尊氏の妻登子の墓と伝えられています。
 母清子は康永元年(1342)12月23日永眠していますが享年は不明です。尊氏は、延文3年(1358)4月30日に54歳で、妻登子は貞治4年(1365)5月4日に60歳で没しています。
 安国寺文書によると、尊氏と登子の遺骨はそれぞれ没後2ヶ月後に二代将軍義詮によって安岡寺に奉納されたことが記されています。文書には、遺骨の一分を「先年帰依の由緒について当時に奉納せしむる所也」「往年の由緒につき当時へ奉納の所也」といずれも光福寺(安国寺)長老に宛てており、足利氏と安国寺のつながりの深さを示しています。
 昭和45年3月20日、綾部市指定文化財に指定されました。

産湯の井戸
この地域はもと上杉荘とよばれ建長4年(1252)から上杉氏の所領となり、荘内に居館を構えていました。
 上杉頼重の娘清子は足利尊氏に嫁ぎ、出産のため故郷の丹波に帰り安国寺の門前の別邸に住んで、当寺の地蔵菩薩に安産を祈願し、嘉元3年(1305)に尊氏を生んだと伝えています。この井戸は、その産湯として使用されたという言い伝えが残っています。

国道27、173、9号線を走って、園部町へ。

 園部城址
 戊辰戦争のさなか最後の園部藩主小出英尚公は明治新政府から園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を受け、明治元年(1868)から2年かけて、櫓門、巽櫓のほか、小麦山山頂に三層の櫓などを築きました。
 しかし、新たな時代の潮流の中、園部城は明治5年(1872)そのほとんどが取り壊され、今は残った巽櫓などが往時を偲ばせます。
 現在は、その跡地に園部公園や京都府立園部高等学校が設置されています。


 普済寺   京都府 船井郡 園部町
普済寺は、平安時代に天台宗寺院として創建されたとも、足利尊氏が夢窓国師を開山として、その弟子となっていた千種姫(尊氏の妹)を開基として創建したとも伝えられています。
 その後荒廃しましたが、江戸時代になって、寛永11年(1634)に亀山(現亀岡)城主菅沼織部正貞芳が天外梵舜禅師を招いて復興し、曹洞宗に改めました。



普済寺 仏殿(重要文化財)
 建立は南北朝時代と考えられ、大きく反り上げる軒、中央が盛り上がる火灯(花頭)形の窓や波状の連子が入る弓欄間など、典型的な禅宗様の仏殿として貴重な建物です。

 これで観光を終了し、トヨタレンタカー亀岡店に車を返し、JR山陰本線で京都へ戻り、新幹線で東京へ帰りました。