平成16年 1月某日 月曜日 広島観光一日目 晴れ

家を車で出発、羽田へと向かいます。
羽田の民間駐車場へ到着。
6:55 羽田空港 飛行機は広島へ出発します。飛行機はJAS。
JASの飛行機はこの後数日して、エンジントラブルが発生し、点検により欠航が続くことになりました。

広島空港着。広島空港は山の中にある空港であり周りは何もないです。
福山行きのバスに乗り、JR福山駅へ向かいます。

JR福山駅で大学の同級生の、M君と待ち合わせました。
前もって連絡し、今日一日一緒に観光することになっていました。
M君とは彼の結婚式に会って以来だから9年ぶりで、懐かしいです。あまりかわっていないです。

 福山駅から、バスで鞆の浦へM君と二人で向かいます。バスの本数は比較的多いです。
 鞆の浦は福山市にあり、万葉の時代から、瀬戸内海を通過する船の潮待ち・風待ちの港として栄えました。

 鞆の浦の安国寺下でバスを降りました。

 天気は、たまに雲が太陽を遮る時があるが、おおむね晴れています。
 鞆の浦の神社仏閣・史跡等は、鞆の浦まで来れば、歩いて回れます。それだけ観光スポットが街に集中しているということです。
 鞆の浦は歴史の街である。万葉の時代から、幕末まで、歴史の息吹があふれています。
 神功皇后、平重盛、足利尊氏、足利義昭、毛利輝元、山中鹿之助、安国寺恵瓊、平賀源内、三条実美、坂本龍馬、シーボルト、万葉の時代の遣唐使・遣新羅使、太宰府の役人達、江戸時代の朝鮮通信使などが枚挙に暇がないほどの人々が足跡を残しています。

備後安国寺
 この寺の創建は文永年間(1264〜75)にさかのぼるといわれ、前身は金宝寺とよばれていました。南北朝時代に足利尊氏が夢窓国師の勧めによって元弘以来の戦没者の霊を慰めるため、国ごとに一寺一塔を建立したなかの一つです。1339(暦応2)年、愚谷和尚により師の法燈国師を開山としました。寺は一時衰退し、1579(天正7)年安国寺恵瓊が再興し、1920(大正9)、本堂は焼失しました。
 ここには創建当時の建物である唐様・入母屋造の釈迦堂(国重文)があり、堂内には阿弥陀三尊像、法燈国師坐像(いずれも重文)が安置されています。
  拝観料150円


沼名前(ぬなくま)神社

 祭神は大錦津見命・素戔嗚尊命。
 伝説によると神功皇后がが西国に下ったとき、腕に巻いた高鞆をここに奉納したといい、これが鞆の地名の始まりと伝えられています。





小松寺
 小松内府平重盛ゆかりの万年山小松寺(臨済宗)には、重盛手植えの老松がありましたが台風で倒壊しました。
 瀬戸内海の海上権を握っていた平氏は鞆を重要な拠点としていました。寿永2年(1183)二男資盛の命によリ平貞能京よリ重盛卿の遺髪を持参し、五輪塔を建立しました。
 延元元年(1335)足利尊氏九州よリ大挙東上の途中弟直義と当寺に宿陣し、光厳院から院宣を受けたといいます。この時から実質的に南北朝時代が始まりました。そして室町幕府開設への布石となったのです。
 また、天正3年(1575)京を追われた15代将軍義昭が、鞆に宿陣中の毛利輝元を頼リ当寺に寓居しました。それゆえ鞆の浦では、「足利は小松に興リ小松に亡ぶ」といわれています。

伝山中鹿之助首塚
 静観寺の門前に自然石の墓標がりっぱな石垣に囲まれて立っています。
 山中鹿之助は山陰の雄、尼子勝久に仕えた十勇士のひとりで、当時、毛利輝元との戦いに敗れ、その首実検のため、静観寺に滞在していた輝元(鞆城には足利将軍義昭が滞在中)の所へ首級は持参されました。土地の人はこれを厚く葬り塚を立て、今でも命日には供養を絶やさないといいます。

医王寺(真言宗)
 医王寺に行くのには、坂道を登らなければならなりません。
 平安時代、弘法大師の開基と伝えられ、本尊は室町時代中期の作といわれる木造薬師如来立像(県重文)があります。ここから鞆の浦の街なみ、酔仙島・瀬戸内海がよく見えます。
1826年オランダの医師シーボルトも医王寺を訪れたといいます。
医王寺 本堂 鞆の浦の街並み・酔仙島・瀬戸内海


平賀源内生祠

 平賀源内は四国高松藩薬用方出身の蘭学者で、諸国遍歴のおりに鞆へ立ち寄り、このとき源内焼を伝え、土の神・かまどの神・源内大明神を三宝荒神として祀るよう言いのこして去りました。




鞆七卿落遺跡
 維新の夜明けも近い1863(文久3)年8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家は会津藩・薩摩藩などの公武合体派に追われ長州を頼って都落ちしました。
 一行は、ここ旧「保命酒(ほうめいしゅ)屋」に立ち寄り、その時、三条実美は、世に有名な保命酒をたたえる和歌を残したといいます。また、保命酒蔵などで囲まれた主屋の太田家住宅と向かいの「朝宗亭」は、18世紀中頃〜19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財に指定されています。

いろは丸展示館
 慶応3(1867)年坂本龍馬と海援隊を乗せたいろは丸は、鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突沈没、龍馬らは鞆の回船問屋舛屋に数日滞在しました。江戸時代の蔵が展示館で、いろは丸の模型、大理石のドアノブなどの引き揚げ物を展示しています。2階では龍馬の隠れ家を再現しています。入場料200円



もう、いいかげん腹が空いてきたので、M君と食堂に入り、ステーキ定食を食べました。


鞆の浦歴史民俗資料館
 かつて潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦の歴史・文化に関する資料を展示しています。鯛網漁のジオラマや漁具、瀬戸内海の美しさをイメージして「春の海」を作曲した宮城道男の愛用の琴や遺品も見ることができます。
 入場料150円

鞆城
鞆の浦歴史民俗資料館は丘の上にあります。そこにはかつて鞆城がありました。
戦国時代、瀬戸内海の要所、鞆港に面して築かれた海城です。16世紀初頭、備後を領有した尼子氏に対抗して、鞆の浦を根拠地にしていた毛利元就が、天文年間(1532〜55)に築城したと推定されています。
 元亀4年(1573)、織田信長によって京都を追われた最後の将軍、足利義昭は、鞆城に入り、城は拡充されました。毛利氏は直轄地として、次々に鞆城代をおきました。
 慶長5年(1600)、安芸備後に入封した福島正則により再築城されました。鞆港より三の丸、二の丸、本丸に追手門から上がる梯郭式で、東は福禅師まで北は搦手門へと下り沼名前神社の参道までの広大な縄張です。元和6年(1615)の一国一城令によって取り壊されたましが、水野、阿部時代には町奉行が置かれました。

大可島城跡
 鞆港に突き出す大可島は南北朝時代の大可島城跡(市史跡)です。
 「太平記」によると1342(康永元)年四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方とで合戦となりました。いわゆる鞆合戦の跡です。大可島城にこもる南朝方の守将桑原伊賀守はじめ将兵達は全滅しました。
1349(正平4)年足利尊氏の弟直義の養子直冬は中国探題として大可島城にいたことがありました。
 城跡の一角に、桑原一族の墓と伝えられる室町時代の五輪塔群があります。
 その後、戦国時代、村上水軍の一族が大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。

対潮楼
 真言宗の古刹福善寺の客殿として元禄年間(1690〜1703)に創建されました。朝鮮通信使をもてなす迎賓館として小高い丘の上に建てられ、大広間から見る海上の眺めがすばらしいです。通信使の一人はここからの景色を「日東第一景勝」と賞賛しました。
 料金200円
対潮楼 酔仙島


むろの木歌碑

 「吾妹子が 見し鞆の浦の天木香樹(むろのき)は
 常世にあれど見し人ぞなき」

 鞆の浦は瀬戸内海交通の中心の港でした。万葉の時代は遣唐使、遣新羅使などが立ち寄り、いくつかも歌がよまれている。万葉秀歌といわれるこの歌は、730(天平2)年大伴旅人が太宰府の役人の任期を終えて鞆の浦に寄った時の歌です。727(神亀4)年に任地に向かう時、妻の大伴郎女と神木のむろの木に海路の安全などを祈ったと考えられています。神亀5年太宰府で最愛の妻を失った旅人の嘆きが伝わってきます。



だんだん陽がかたむいて来たので、そろそろ帰ることにしました。
鞆港発のバスに乗り、福山駅に到着。

 M君は昔からしゃべる男だったが、今もかわらないです。絶えずしゃべり続けています。
 広島駅行の山陽線に乗ります。
 駅の売店で缶ビール買って飲みました。
 今日はかなり歩いたのと、少し寝不足気味で疲れたので、電車の中は暖かく気持ちよく眠ってしまいました。

 広島駅に到着し、一旦、ホテルに荷物を置くためチェックイン。
 それから、M君と飲みに行きました。
 まず居酒屋で飲んで、最後はお好み焼きの店へ。
 さすが広島だけあって、駅ビルの同じフロアにお好み焼きの店がいくつも入っています。