平成16年 2月 日曜日 曇りのち晴れ
 ホテルをチェックアウトし、駅前のトヨタレンタカーで、ヴィッツを借ります。



 結城神社   三重県津市藤方結城町2341

 南朝の功臣結城宗広を祭神とする結城神社です。後醍醐天皇とその忠臣達を祀る建武中興十五社の一つです。十五社のうち十四社目の訪問、参拝です。
 この地は、結城塚とか結城明神と呼ばれていましたが、江戸時代になって、津藩の儒者たちがその顕彰運動を始め、1824(文政7)年に神社としました。戦災で社殿は全焼、1956(昭和31)年に再建され今日に至っています。
 ここには後醍醐天皇綸旨を始めとする45通の結城神社文書(県文化)が残っています。

 駐車場は無料の広い駐車場がありました。
 まだ、朝なので参拝する方は少ないです。
 結城神社に、しだれ梅がある梅苑があり、今後梅祭りが開催される時期のようです。まだ梅が咲きそろっていないので、梅苑に入るのは無料になっています。
 結城神社拝殿に参拝して、梅苑へ入ります。梅苑の先に、結城宗広の墳墓があります。
 梅祭りが始まっていたら、入場料500円を払わなければ、拝観できなかったのでしょう。


結城宗広の墓
 木々に囲まれて昼なお暗いところです。墓碑の石柱は石亀の上に載っています。
 結城宗広は、1338(延元3)年、義良親王、北畠親房らとともに東国で再挙を図ろうと、伊勢大湊から東国へ出帆しましたが、暴風に遭い、船は安濃津に漂着し、宗広はこの地で没したといいます。


 梅苑を出ると、若くてとてもきれいな女子達が4〜5人神社に入ってきました。スタイルがよくてきれいな女性ばかりです。梅苑で、これからモデルになって写真でも撮るのでしょうか。みんな神社の社務所に入っていきました。


 結城神社の駐車場を出て、車で北畠満雅戦死の地へ向かいます。

 北畠満雅戦死の地は、「南帝王の杜」のホームページにでていました。
 南帝王さんのホームページの地図にでていた地点に向かうが、それらしいものがみあたらないです。
 家の前の道路で掃除をしていたおじさんに聞いても、ここら辺にはないと言います。ちょっと行った先には、平忠盛塚があるということです。

 北畠満雅戦死の地
 もう一度、道を戻ったら、それらしいところがありました。鳥居らしきものがあります。
 神社のようであり、南帝王さんのホームページにあった風景がありました。
 なんだか、あまりそれほどの歴史を感じさせないです。個人で祀っているようなお社です。


 北畠満雅卿忠烈遺跡の石碑があります。
 昭和18年12月 陸軍中将 川村尚武書と刻まれています。





県道43号線を行きます。
道がだんだん細くなっていきます。川沿いに走るルートです。道が狭くなり車2台がすれ違いができないような場所が多いです。



 北畠神社   三重県一誌郡美杉村上多気

 北畠神社に参拝。南朝の功臣で伊勢国司の祖、北畠親房・顕家・顕能らを祀っています。神社の左手に北畠氏館跡庭園(国史跡・名勝)があります。
 これで、建武中興十五社の参拝がすべて完了しました。約4年かかりました。感無量で、うれしいです。
 神社の拝殿・本殿の建物は最近改築したようで新しいです。白壁のしっくいが目に鮮やかに見えるほど白いです。


境内に北畠顕家の銅像があります。阿倍野神社・霊山神社にある銅像とと似ています。

 北畠氏館跡庭園を見学するのは入場料300円です。社務所で払ってくださいとのこと。神社社務所に行ってインターホンを鳴らしたが、誰もでてきません。霧山に登って、また下りてきてからまた見ればいいとと思い一旦諦めました。

車に戻り、東御所跡へ向かいます。

東御所跡

祠がある。
雪姫伝説の案内板がありました。

 北畠氏は、北畠顕能卿以来、240年問伊勢国司として、この地に館を構え、伊勢国に君臨した名族北畠氏も遂に戦国時代にいたり動乱の荒波にのまれ、その幕を閉じることになりました。
 八代国司具教卿は、阿坂城(白米城)・大河内城で織田信長の大軍を迎え撃ったが雌雄決せず、永禄12年、わが娘、雪姫の婿養子として、信長の子、茶せん丸(後の信雄)を迎え入れ戦は収まりました。
 しかし、平和も束の問、この婚儀が謀略であったことに気付いた時は、すでに遅く、天正4年11月、具教卿は三瀬谷の館で暗殺され、霧山城を始め各支城が落城しました。
 雪姫の運命はどうなったのか、残念ながら歴史資料には殆ど登場することはないです0が、古くからこの土地の人々に語り継かれてきた伝説があります。
 自害しようとしたか果たせず、東御所と呼ばれたこの館の桜の木に縛られていたところ、どこからか現れた臼い狐に救い出されました。
 それから何処ともなく逃れられ、生涯を全うされたといいます。





再度北畠神社前に戻り、車を駐車場に停車。

霧山城登山開始。
神社から山頂までは、片道1.4kmぐらいです。いきなり登りが続きます。
平坦になって、ゆるやかな下りになります。
尾根道を歩いていきます。杉林の中です。
すぐ、登りになり、それからずっと登りとなりました。
ところどころ、木の階段が整備されています。



 登り初めて30分ぐらいで、鐘撞堂跡に着きます。ここから、霧山城本丸が見えます。
 杉の木立が無くなり視界が開けると、風が強く雪が舞ってきました。雪は本降りではありませんが、どうみてもすぐ止みそうにありません。

 時々、薄日は射すが、北の方の空は薄暗く、強い風とともに雪が舞っている。
 鐘撞堂山を下りて、霧山城へ向かいます。
 ツツジが山道の脇に植えてあります。
 今まで山を登り続けてきましたが、寒いので全然汗をかきません。


 霧山城跡へ到着。
 北西の方、吉野の方から横殴りの風が雪を運んできます。すごく寒いです。
 南の方は晴れています。天気が悪いところと、天気がいいところの境目にいるのかもしれません。



 霧山城跡(国史跡)は、標高560mの山にある。1342(興国3)年北畠顕能が本拠としていた度会郡田丸城を北朝勢に攻略されたため、父親房による回天構想の一環として築かれました。城跡に立つと大和から伊勢への街道、山麓の多気盆地を見下ろすことができます。
 この城砦を中心に、北畠氏は200余年間にわたって南勢に君臨しましたが、1569(永禄12)年、織田信長の攻撃を受け、和睦のため信雄(信長の次男)を養子として迎えました。しかし1576(天正4)年具教が信雄方に三瀬御所で殺されると、この城も急襲され、廃城となりました。

 下山開始


 北畠庭園
 社務所の方へ声をかけて、入場料300円を払い、北畠庭園を拝観します。ついでに、建武中興十五社御朱印帳と交通安全のお守りを買いました。今年は、建武中興670年だそうです。初めて知りました。

北畠氏館跡庭園(国史跡・名勝)は、広さ2800平方m、枯山水のある築山と米字池の回遊式庭園で、室町幕府12代将軍足利義晴を迎えたとき管領細川高国により設計造園されたといいます。室町期の代表的な武将庭園です。北畠神社は、かつての「多芸(多気)御所」の一部であり、前を流れる八手俣川に沿って城下町がひらかれていました。

庭園は、素晴らしい庭園です。自分が今までに見たことがないタイプです。京都に象徴されるような、禅宗・宮廷的な庭園ではないです。武将庭園です。
形がさまざまな大きさの自然石を池畔に配置して、ダイナミックな風景をつくっています。
庭園の池の回りを、歩いて回れるようになっています。
冬なので、庭園の木々は枯れていますが、苔は薄緑色です。庭園の中に、誰が植えたのか、今では、杉の巨木が生えています。これがまた庭園の風景に合っています。




車に戻り、 出発
それまで曇っていたのが、雨が降ってきました。雨から雪になったきます。

美杉村ふるさと館を見学。入館料300円。
北畠氏の資料が詳しいです。

出発。また、雪が降ってきました。

途中、国道368号線の、美杉村から飯南町へ抜ける、山越えの道が非常に細い道で、カーブが連続する道でした。

 さすがに、山を抜けて南側にでると、雪は降っていません。
 高速、伊勢自動車道へ入ります。

 伊勢市 大湊町へ。
 海が見えてきました。

義良親王御乗船地  伊勢市大湊町
 義良親王御乗船地の碑がなかなか見つかりませんでした。
 大湊の海岸はよく整備されています。きれいなトイレが造られており、駐車場もあります。

やっと、偶然、義良親王御乗船地の碑を見つけました。
整備されている海浜の駐車場脇にありました。五十鈴川の河口ではなく、太平洋側の海岸に位置しています。





帰りは、高速を通らずに、国道23号線を一路通るルートで帰りました。

津市内に到着。
今日一日でトータル158.2km走り、10リッターのガソリンが入りました。
燃費は、15.8km/リッター。
トヨタレンタカーへ車を返しました。

津駅から近鉄線 名古屋行きの急行に乗り、名古屋駅へ向かいます。
名古屋駅から新幹線に乗り、東京へ向かいました。