平成16年3月某日 日曜日  晴れ  今日も暖かい。

ホテルをチェックアウトして、浜松駅前のトヨタレンタカー浜松へ歩いていきます。
歩いて5分もかかりませんでした。

トヨタレンタカー浜松でビッツを借りて出発。

 まずは、浜松城跡へ向かいます。
 浜松城跡
 浜松城は、室町時代に築城された引馬城を、1568(永禄11)年に遠江へ東進していた徳川家康が修築拡張し、浜松城としたものです。家康は1570(元亀元)年にこの城へ入城し、以来遠江経営の本拠地として17年間在城しました。その間、徳川勢力をかためる三方原・姉川・長篠・小牧・長久手の合戦が行われ、5ヶ国を領有する大大名として成長したところでした。
 城郭はそれまであった引馬城を米蔵として一部に取り入れ、南北500m・東西450mの縄張をもち、本丸・二の丸・三の丸がわずかな高低をもち階段状に並ぶ梯郭式とよばれるものです。家康入城以降少しずつ手が加えられ、城が完成したのは天正年間でした。
 家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多いです。中でも水の越前守忠邦の名はよく知られています。
 石垣は、野面積(のずらずみ)と呼ばれる堅固な作りで古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されています。
 天守台は昭和33年に再建されたものです。
城跡には、現在小学校、浜松市役所、公園となっています。

 浜名湖へ向かいます。

 浜名湖
 浜名湖にかかっている浜名湖大橋を渡ります。なかなかいい眺めです。
 浜名湖大橋を渡ると、平成16年4月から開幕する浜名湖花博の会場がありました。
 
 国民宿舎 かんざんじ荘へ。
 ここは、山の上(大草山・それほど高くはないが)にあり、ここからの浜名湖の眺めがよいです。
 浜名湖畔の舘山寺温泉からはロープウェーで繋がっています。
 舘山寺温泉には、海水浴場もあるそうです。
 


 引佐郡細江町  二の宮神社 到着

 二の宮神社
 二の宮神社は、南北朝時代の宗良親王の妃、駿河姫を祭神としています。
 南北朝時代の初期、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していました。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子尹良親王をもうけたといわれていいます。


 境内にホルトノキ・ナギの大木があります。
 まるで、宗良親王と妃・駿河姫のように寄り添って立っています。








 ここから、近くの長楽寺へ。


 長楽寺
 江戸時代、東海道の脇街道として利用された姫街道から、西の山間に入ったところにある、真言宗の古刹です。創建は、今から約1200年前の大同年間といわれ、江戸時代末期まで栄えていました。見ものは、小堀遠州作の回遊式庭園です。「満天星(どうだん)の庭」と呼ばれる庭は、山の斜面の中腹あたりまでの2000平方メートルが、約200株のドウダンツツジで埋め尽くされています。周辺には、1ha、600本の梅林もある。無料駐車場有り。入場料 大人300円
 庭園のつつじが冬枯れで、冬のたたずまいでした、ちょっとさびしいです。


 龍潭寺(りょうたんじ)
 引佐郡引佐町井伊谷  龍潭寺に到着。

 小堀遠州作の龍潭寺庭園は、春にはサツキ、秋にはドウダンツツジ・もみじと四季折々の変化に富んだ庭園で、昭和11年に国指定名勝記念物となっています。

 拝観料大人 400円
 龍潭寺前には、大きな駐車場があり、観光バスが停まっています。静岡県の有名な観光地となっています。


 龍潭寺(臨済宗)は733(天平5)年行基の開基とされ、古くは地蔵寺と称しました。龍潭寺は井伊家の菩提寺として保護され、南北朝の頃、井伊・奥山一統は後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁して戦いました。
 龍潭寺の庭園(国名勝)は本堂の裏手にあり、寺伝では小堀遠州作といいます。広さ約500坪(1650平方メートル)の池泉観賞式で、奧の山地を築山とし、池泉が細長く遠近法が採用されているのが特色です。


 これから、静岡県境を越え、愛知県 北設楽郡 豊根村へ向かいます。
 国道257号線を北上。愛知県境を越え愛知県へ。
 愛知県 鳳来町で国道151号線を右折。
 ずっと国道151号線を北上します。
 

 途中道を間違いましたが、なんとか目指す愛知県 豊根村 御所平・川宇連神社・ハナノキ自生地に到着。ここまで、今日は車で127.3km走りました。
 これから、豊根村にある尹良(ゆきよし)親王の史跡伝承地を廻ります。

 尹良親王は、後醍醐天皇の皇子宗良親王の第二子に当たります。母は香坂高宗の娘とされるが皇統譜にその名著れず、伝説の親王といわれています。


 御所平と川宇連(かおれ)神社    尹良親王遺跡

 この地が、御所平といわれるようになったのは、尹良親王の御在所がここにあったからだと言い伝えられています。御所平には、尹良親王にまつわる伝説や遺跡が数多く残っています。
 川宇連神社の前には、尹良親王の巨大な銅像が立っています。


碁盤石
 尹良親王は、この御所の地に居館をつくり、よくこの石の上で碁を打たれたと言い伝えられています。ある時碁を打っていると敵が来襲したので、この碁盤石をひっくり返して出発したといわれています。5月3日の尹良親王のお祭りには、この石にしめ縄を張って神事が行われています。


川宇連(かおれ)神社(旧尹良神社)

 祭神は尹良親王。尹良親王は、後醍醐天皇の第三皇子、征夷大将軍宗良親王の第二王子で、延正の年間、足利軍討伐を志し、砦山の合戦に利あらず、信州へ転進の際、駐輦(ちゅうれん)されたゆかりの地でこの辺一帯を御所平といいます。
 昭和45年10月諏訪神社と合祀され川宇連神社と改名されました。

ここから、車で5分ぐらいの、御所岩と採り蕨へ。

 御所岩と採り蕨
 御所岩は、尹良親王がこの地を訪れた時、御食事の御座石であった言い伝えられています。この岩の附近を土地の人は「採り蕨」といい、ここでとれる蕨は「アク」が少なく他の土地でとれる蕨と違った特性をもっているといわれ、尹良親王がここで食事をされたとき、御菜にされたと言い伝えられています。

車で、砦山へ。

 砦山
 砦山は女人禁制で、延正の年,尹良親王が足利軍を迎撃せんと、大入川の水勢をめぐらす地の利をもつこの地に籠もって、合戦に及んだが戦利あらずして信州に逃れたといいます。
 この時陣中に妃を喪い、山中には、当時の激戦を物語るかのように、矢尻などが時折発掘されるといいます。地元日余沢部落では、将兵の霊と弔うため、毎年11月13日秋祭りを執行しています。
 砦山には、昔山頂に祠(ほこら)があり、尹良親王のお妃をおまつりしたところだといわれていました。その後、祠はふもとに移されました。

 砦山の頂上に行こうとした。道が細いので、途中で車を路肩に停めて、歩いてゆきます。10分ほど登ってゆくが、結局道がわからなくなり、引き返してきました。
 他にも、尹良親王遺跡があるらしいが、よくわからないので、これで撤退することにしました。
 国道151号線を一路南下します。


 鳳来町には、梅がたくさん咲いていました。






 鳳来町を過ぎて、新城市へ。
 長篠城跡を見学。
 長篠城跡に到着。ようやく陽がかげってきました。

 長篠城跡
 武田勝頼が天正3年(1575)5月、1万5千の軍を引きつれ三河に攻めこみ、長篠城を囲み攻撃を開始しました。長篠城は、当時21才の奥平信昌を城将とし5百の兵で守っていました。長篠城は三方を断崖に囲まれた難攻不落の城とはいえ、武田軍の猛烈な攻撃によって落城は目前にせまっていました。
 徳川家康は織田信長に援軍を要請します。出動を決意した信長は、万全の準備をととのえ、5月13日岐阜を出発しました。ここに史上有名な長篠の戦いが始まりました。

長篠城本丸跡の碑


長篠城本丸跡


長篠城跡北側の空堀跡


鳶ヶ巣山。ここに武田軍の砦がありましたが、織田・徳川軍の奇襲部隊が襲って奪ったことにより長篠の戦いの火ぶたがきられました。


 長篠 設楽原古戦場跡
天正3年(1575)5月18日、織田・徳川連合軍3万8千は、設楽原の連吾(れんご)川にそって陣地を築き始めました。20日、武田軍は、長篠城の押えに3千の兵を残し、他はことごとく寒狭(かんさ)川を渡って連合軍の堅陣に向って進撃しました。21日(太陽暦7月9日)の明け方、鳶(とび)ヶ巣山の戦闘を合図に設楽原では、両軍主力の大激突が始まりました。
 武田軍は、連合軍3千挺の鉄砲と、三重の馬防柵にはばまれて敗退しました。この戦いで、武田軍の戦死者は1万余人、連合軍の死傷者も6千人を下らなかったといいます。
 信長は、大量の鉄砲を巧みに使って、勝敗を一日で決し従来の戦術を一変させました。この戦い以後、武田氏の勢力は急速に衰え、織田氏の覇権は絶対的なものになりました。
 実際に設楽原を見て思ったのは、以外に狭いところだということです。
5万人弱の兵力の大会戦があったところなので、広い平原かなと思っていたのですが、イメージが違います。幅が狭い谷間の谷津田です。

 設楽原。


 設楽原の真ん中を流れている連吾(れんご)川。小川です。


 設楽原の織田・徳川側陣地


 馬防柵(復元したのもの)


 馬防柵(復元したのもの)


 馬防柵(復元したのもの)

 もう暗くなってきたので観光を終え、一路、浜松市内を目指します。
 浜松市内に到着、駅の近くでガソリンをいれると14リッター入りました。
 234.8km走り、 燃費は、16.7リッター/kmでした。

 レンタカーに車を返却。
 1泊2日旅を終え、新幹線で東京へ帰りました。