平成16年4月 土曜日 今日も晴れている。

 京都駅から湖西線で守山駅へ。電車は、新快速に乗りました。
 守山駅前のトヨタレンタカーでレンタカー・ビッツを借ります。
 今日は、湖南から湖北まで走る予定です。


 妙感寺
 藤原藤房ゆかりの寺。どうみても、田舎のお寺です。
 藤原藤房は後醍醐天皇の側近で、元弘の変によって捕らわれ、北条高時によって常陸に流され、小田治久に預けられました。元弘3年(1333)建武の新政が成立するにおよんで、藤原藤房も京都へ帰りましたが、やがて僧侶となって諸国を遍歴したと伝えられています。
 この妙感寺に藤原藤房のお墓があります。
妙感寺 藤原藤房のお墓


 沙沙貴神社 安土町
 佐々木氏の氏神です。
 りっぱな古格の建築の神社です。


 安土城跡  安土町 

 安土城跡の駐車場の駐車料金500円でした。安土町の観光協会の人がお金を集めていました。
 車を停めて歩き始める。
 道幅が広い石の階段です。信長の権力の大きさを感じさせ石垣もりっぱです。
 ゆっくり登ってゆくと、天主閣跡まで30分ぐらいかかりました。
 壮大な石段と石垣が続いています。これは発掘されて復元されたものです。





 伝豊臣秀吉邸跡


 さすが、石山本願寺から仏敵といわれた織田信長。どこからか、石仏を持ってきて、石段に使用しています。普通の人なら恐れ多いでしょう。信長は、足利義昭の二条御所を建設するときにも、石が不足し石仏を使ったといわれています。




 穴太積とよばれる石垣の組み方。今でもがっしりしています。


 二の丸にある信長廟です。台座の上に自然石が載っています。信長は本能寺で灰燼に帰したはずだから、供養するための墓ということでしょうか。


 本丸跡


 天主閣跡


 天主閣跡の礎石。大きな礎石が規則正しく並んでいます。
 ここに当時、外側5層、内側7層の天主閣が聳えていました。

 下りの道は、総見寺 三重塔を見るために違うルートで下りてゆきます。
 


 総見寺 三重塔(重要文化財)
 信長が生きいていた当時の総見寺の建築物で、残っているのはこの三重塔と仁王門だけです。


 総見寺 三重塔近くから見る西の湖






 安土城跡の桜は満開で、もう散り始めていました。風が吹くと、桜吹雪が舞っていました。
 桜の木の下で花見をして宴会をしている人たちがいました。


 百済寺(ひゃくさいじ)
 金剛輪寺、西明寺とともに、湖東三山の一つである。
 ちょうど桜のシーズンで土曜日なのに、観光客は少ないです。桜の木がほとんど無いからでしょう。この寺は紅葉で有名なお寺です。
 百済寺は、推古天皇14年(606)の開創と伝えられ、湖東三山のなかでも最も古く、聖徳太子の発願によって開かれたと伝わります。
 寺号が示すように、当時山麓に住んでいた百済からの渡来人のために創建された寺ともいわれています。
 天台宗改宗ののちは、「湖東の小叡山」とも称されるほど、壮大な伽藍を構えていました。本堂、五重塔をはじめとする300余坊を有し、僧俗合わせて1200人が居住するほどの大寺だったそうです。しかし、2度の失火に続く、天正元年(1573)の信長の兵火は、全山を灰燼に帰しました。現在見られる本堂や、仁王門などが復興されたのは、慶安3年(1650)のことです。

 ここから続く参道は、古の雰囲気を感じさせます。







 入山料を払い、受付のお坊さんと話していたら、ルイス・フロイスの日本史の話をお聞きした。ルイス・フロイスは日報のごとく日本での見聞をこまめに本国ローマに送っていましたが、あまりローマ本部では重要視されなかったそうです。かえって通信数を少なくし、月報ぐらいでよいとフロイスに通達したそうです。


 百済寺 本堂

 勝楽寺  犬上郡甲良町正楽寺
 勝楽寺は、室町時代初期バサラ大名として勇名を馳せた佐々木道誉(高氏)が1341(暦応4)年、東福寺の雲海禅師を招き建てた寺です。
 江南の佐々木六角氏に対して、江北の佐々木京極氏は伊吹山麓の大平寺城(霧ヶ城)により湖北を支配しており、南北朝時代に至り、道誉によって大いに勢力を拡大しました。道誉は、鎌倉幕府が倒れると足利尊氏につき、北朝方の有力武将として活躍しました。

 本堂脇の墓地中央に火災のため風化著しい道誉の墓と伝える宝篋印塔1基があります。
(京極家歴代の墓は山東町清滝の徳源院にあるり、道誉の墓は徳源院にもあります。)

 勝楽寺の手前には池があり、その池の周囲の桜がちょうど満開でした。
 寺隣に広場があり、地元の人たちが花見で宴会をしていました。


 清滝寺徳源院(天台宗)  史跡清滝寺京極氏墓所(国史跡)

 駐車場に車を停めて歩いてゆきます。徳源院への参道。

 京極氏は中世、この地方を本拠に活躍した近江源氏の一族で、初代氏信がここを菩提寺として以来、一族が代々この地に葬られました。

 本堂の山手がその墓地で、上段には鎌倉・室町期の宝篋印塔18基が並び壮観です。左端の「永仁3(1295)年」の銘がある塔が初代氏信の墓で、歴代一族の墓が多数並んでおり、宝篋印塔の形態の時代による変化を手にとるように見ることができ、あたかも宝篋印塔の博物館の観があります。




 境内には、江戸時代に讃岐の丸亀藩主京極高豊の寄進した三重塔(県文化)があります。








 室町時代初期、バサラ大名として勇名を馳せた佐々木道誉(高氏)お手植えと伝えるしだれ桜です。
 どうも初代ではなく、2世の桜らしいです。2世でも何百年と経っているいるでしょう。





 デジカメで写真を撮っていたら、電池が終わりに近づいてきました。今日二本目の電池(スペア)を使っているので、やばかったです。


 北畠具行の墓 (国史跡)
 それから、近くにある北畠具行の墓を見学しました。松が生えた小高い丘の上にあります。途中、地元の方の墓地も山の中に点々とある、さびしいところです。
 北畠具行は後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府倒幕計画に加担し、捕らえられて、当時北条方だった京極氏に預けられました。そのときの京極氏の当主道誉は具行の才能を惜しんで幕府に助命を願い出たが効無く、この地で首をはねられました。その墓石は高さ2mの宝篋印塔で、松林の中にひっそりと立っています。
 なんとかデジカメの電池がもってくれました。

 伊吹山

 時間もあるので、さらに湖北へ行ってみることにしました。
 もうデジカメの電池が無いので、コンビニで写ルンですを購入しました。
 国道365号線を走ります。右手に伊吹山が見えます。




 小谷城跡
長浜市を過ぎて、東浅井郡 湖北町へ。
小谷城跡へ。
 小谷城は山城で、小谷山にありその遺構はほとんど全山に及んでいます。小谷城を築いた浅井氏は、室町時代近江北部の守護京極氏の家臣であったが、京極家の内紛に乗じて台頭し、湖北に覇を唱えるようになりました。
 浅井3代の浅井長政は、織田信長の妹お市の方をめとって、織田氏の同盟者になっていました。しかし、1570(元亀元)年盟友朝倉義景が信長に攻められたとき、朝倉氏に味方して織田軍を江越国境に挟撃したことから信長との和は破れ、同年6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉軍は、織田・徳川軍に大敗を喫しました。この後長政は、湖北の一向一揆・比叡山衆徒・武田信玄・六角氏・三好氏らと結び、織田包囲網を築き抵抗しましたが、1573(天正元)年8月28日信長に攻められてついに小谷城は落城しました。長政と父久政は城中にて自尽し、長男万福丸は関ヶ原で磔にされたが、お市の方は3人の娘とともに信長のもとへ送られました。

小谷城跡本丸へ向かう舗装された林道を登ってゆきます。10分ほど登ると、林道は行き止まりになりました。行き止まりの手前カーブに余裕があるスペースがあり、そこに4台ぐらい車が停めてあり、自分も車を停めました。
もうここからは、自分の足で山を登ってゆくしかないです。
今日はここまで車を127.7km走らせていました。
 山道を登ってゆきます。


浅井氏と家臣の供養塔、記念碑








大広間跡
 ちょうど、発掘中でした。
 桜が満開でした。







大広間跡







小谷城跡は、安土城跡とは違います。安土のような壮大な石積みは無いです。安土のような豪華さもありません。それは浅井氏が滅びて、城も焼け落ちたからでしょう。

約15分ほど歩いて本丸に着きました。しばし見学します。



 今日一日で、安土城と小谷城を見学したことになります。どちらの城も栄枯盛衰を感じさせました。
 浅井長政は、信長の恐ろしさはたぶんわかっていたでしょう。それでも信長に背いたということは、必ず自分たちが勝つと思い、そして大義名分(足利将軍に信長に背けと命令がきたか。)もあると思っていたのでしょう。武田信玄が京に上ってくれば、信長は必ず敗れる。自分たちが勝つという見込みがなければ、とても信長の敵になることはできなかったでしょう。



ここから、海津大崎まで行こうとしましたが、木之本を過ぎて急に車が混んできました。反対車線(長浜方面へ向かう車も)続々と引き返してきます。
賤岳隧道を出ると、さらにひどい渋滞です。がまんして塩津浜まで行きましたが渋滞は解消されないです。これはもう時間的に無理だと思って(レンタカーをPM8時までに返すしかないでの)、引き返すことにしました。
引き返してもひどい渋滞です。賤岳隧道をでて、途中から右に折れて、県道木之本長浜線から「さざなみ街道」にでました。道を曲がったら車がスムーズに流れて、あまり信号もなくて快適に走れるようになりました。琵琶湖沿いの景色が非常によいです。
琵琶湖の湖岸の道を走っていると、湖に島(竹生島か)が浮かんでおり、夕日が湖の向こう山の端(山は黒々としている)に沈もうとしていました。夕日がきれいでした。白と黒の水墨画の世界に、太陽の赤と金色が混じった色の光線が差し込んでいました。




ちょうど、夕日が特別きれいなロケーションがあって、多くの人がカメラをセッティングして写真を撮っている場所がありました。
琵琶湖は野鳥が多いです。ラムサール条約に基いて指定されている湿地帯があるようです。





だんだん暗くなってきました。
下道で、長浜市を走り過ぎて、米原ICから名神自動車道に乗りました。栗東ICで高速を降ります。
トヨタレンタカー滋賀守山駅前店の近くのガソリンスタンドでガソリンを入れました。
ガソリンは16リッター入り、走行距離は248.3km走りました。燃費、15.5km/リッター。
19:30 トヨタレンタカー滋賀守山駅前店に車を返しました。
守山駅からJR電車に乗り京都駅へ帰りました。