平成16年 6月 6日(日) くもり ときどき 小雨

京阪電車に深草駅から乗り、三条駅で乗り換えました。
地下鉄東西線の京阪三条駅から電車に乗ります。
浜大津駅で乗り換え、三井寺駅で降りました。歩いて、三井寺へ向かいます。

琵琶湖疎水に沿った道を歩いてゆきます。

三井寺の山門に到着。


 三井寺  天台宗寺門宗総本山
 三井寺は、正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といい、壬申の乱で敗れた大友皇子の子大友与多王が、686(天武15)年創建したと伝え、大友氏の氏寺となっていた。「園城寺」という寺号は与太王が父大友皇子の荘園城邑(しょうえんじょうゆう)を献じて一寺を創建したということから、天武天皇により「園城」という勅願を賜ったことに由来します。

 三井寺の通称は、天智・天武・持統の3帝が産湯に使った霊泉(御井)があることに由来します。
 後に荒廃していたのを859(貞観元)年に天台宗の高僧円珍(智証大師)が再興したものです。

 三井寺は創建以来千三百年の歴史と数々の史実や伝説に満ちあふれた巨刹です。平安時代には四箇大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の一つに数えられ、現在も山岳寺院として長等山山腹に広大な境内地を有しています。
 また近江八景の一つ三井の晩鐘や、西国第十四番の霊場である三井寺観音堂などもよく知られ、多くの参詣者で賑わっています。

 仁王門 重要文化財
入母屋造、桧皮葺の楼門。
1452(宝徳4年)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられ、のち伏見城に移され、さらに1601(慶長6年)徳川家康の寄進によって園城寺へ移されたものです。





 園城寺食堂(釈迦堂) 重要文化財
 食堂は、もと御所の清涼殿であったという伝承があります。
 現在は、釈迦如来(室町時代)がまつられている。京都・清凉寺の釈迦如来に似ている。
 建築年代は、室町時代初期と推定されています。




 金堂(本堂) 国宝
 桁行七間、梁間七間一重入母屋造桧皮葺の大建築で落ち着いた美しい建物です。
 現在の金堂は、1599年(慶長4年)に豊臣秀吉の夫人北政所によって建てられたものです。 桃山時代の代表的なすぐれた建造物で、国宝に指定されています。
本尊は、天智天皇の念持仏と伝える弥勒菩薩像で秘仏となっています。金堂内部には、平安時代のものをはじめ、20数体の仏像が所狭しと安置されています。

 閼伽井屋 重要文化財
 この地に湧出する清水をもって天智・天武・持統三帝誕生の際の御産場にされて以来、ここは御井之地として尊ばれるようになったといいます。現在も金堂西わきに閼伽井屋があり、三井の霊泉として崇められています。それを取り囲むように蓬莱の石積みがある。ここは大友皇子の家居の跡とされ、現存する日本庭園の最古の遺跡と伝えられます。


 一切経蔵 重要文化財
 一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう。)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えてあります。室町時代を降らぬ建物とされます。この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものをも毛利輝元によって1602(慶長7)年に移されたものといわれています。


 三重塔 重要文化財


 この三重塔は、もと大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を、豊臣秀吉が伏見城に移築しました。さらに1601(慶長6)年に徳川家康により三井寺に寄進されたものです。室町初期の建立と推定され、大和地方における中世の塔の風格をもっており、鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされています。




 三井寺観音堂 滋賀県指定文化財

 観音堂は園城寺南院札所伽藍の中心建物で如意輪観世音菩薩(重要文化財)を安置しています。







 観音堂は高台にあり、境内から琵琶湖・大津市内がよく見えます。







三井寺には、もみじの木が多いです。
三井寺をでて、駐車場のレストランで昼食を摂りました。


大津市役所の前を歩いていきました。

 弘文天皇 長等山陵
 天智天皇の皇子 大友皇子の御陵である。
 天智天皇の第一皇子。父帝によって後継に選ばれ近江朝廷の主となりました。
 しかし、父帝の同母弟で、叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)が決起して壬申の乱が勃発した。それにより弘文天皇は自殺に追い込まれました。
 この場所も昔は、三井寺の寺域だったそうです。大津市役所の北側にあります。
雨が少し降り始めました。



 新羅三郎義光の墓
 弘文天皇 長等山陵から歩いて3〜4分の山の中にあります。
 新羅三郎は、源義光のことで源頼義の子にあたります。兄に源義家、源義綱がいます。新羅三郎というのは園城寺の北院の鎮守新羅明神をまつる新羅善神堂の神前に置いて元服したことにちなむもので、兄も八幡太郎義家、賀茂次郎義綱とそれぞれ元服した神前に由来する名を別に有しています。
 義光は弓馬の道にすぐれ、後三年の役(1083〜87)には、兄の義家を助けるため奥州へでむいて、清原氏の乱を兄に協力して治めています。義光は1127年に没し、この墓が新羅三郎義光の墓といわれています。



 新羅善神堂 国宝
 弘文天皇 長等山陵のとなりに石鳥居があり、そこから1〜2分ほど歩いたところにあります。
 堂は三間四方の流れ造り、屋根は桧皮葺きの美しい建物で、国宝に指定されている。暦応3年(1339)足利尊氏が再建したものです。
 新羅明神は園城寺開祖智証大師の守護神で、本尊新羅明神坐像も国宝。源頼義の子 義光がここで元服し新羅三郎義光となのったのは有名です。

 新羅明神の伝説
 円珍が唐から帰る途次、船中に1人の老翁があらわれ、円珍に自分は、新羅明神であって円珍の教法を守護することなどを告げ、姿を消したという。円珍が入京し、唐から招来した経典を太政官に差し出した際、再び老翁が出現して、園城寺に円珍を導いたという。それ以後、新羅明神は園城寺の北野にとどまり、円珍は、貞観2年そこに神祠を建て、明神を祀りました。

唐門から中に入れないので、建物がよく見えません。柱が虫が食っているのが見えました。

雨が少し降ってきました。
風があって、気温が高くないので、蒸し暑くなく快適です。
カサをさして歩きます。次は三井寺の北院である法明院へ行くことにしました。
住宅地の中を通る坂道を登ってゆくます。
法明院への道がよくわからなかったですが、なんとか、行き着きました。


 法明院

法明院は、山の中の高台にある寺で、三井寺の北院となっています。
フェノロサの墓を参拝。杉林の中にあります。

 フェノロサの墓
 フェノロサはアメリカの哲学者。明治11年に招かれて来日し、東京大学で哲学などを講じたかたわら日本美術に関心持ち、とくに日本の美術の真価をアメリカ・ヨーロッパに紹介し、その啓発につとめました。岡倉天心とともにその振興に貢献し日本美術の恩人ともいわれています。
 博士は明治18年に景勝をこよなく愛した法明院で得度受戒し、法明を諦信といいます。帰国後ボストン美術館東洋部長として、その紹介につとめましたが、明治41年ロンドンにて病死後、その遺言によってこの地に葬られました。
 同院には生前愛用した天体望遠鏡・地球儀・テーブルなどが保存されています。また、隣には博士の親友ハーバート大学のビケロ博士の墓もあります。
 奈良の法隆寺夢殿に国宝 救世観音立像があります。聖徳太子等身像と伝えられ、800年以上秘仏となっていましたが、1884(明治17)年フェノロサと岡倉天心によって厨子(ずし)が開かれ、像容が明らかになったものです。

雨があがり、少し青空が見えてきました。

京阪電車で、膳所へ。


京阪電車 膳所駅で降ります。

 義仲寺
 膳所の街中にあり、場所がわかりずらかったです。
義仲寺には、源義仲の墓と松尾芭蕉の墓があります。

 義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
木曽義仲の墓 松尾芭蕉の墓
 門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
 義仲寺は、芭蕉がしきりに来訪したことで知られています。1694(元禄7)年、大阪で没した芭蕉の遺骸は、遺言によって、芭蕉が敬愛した義仲の眠る当寺に運ばれ葬られました。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。国指定史跡になっています。

JR膳所駅から電車に乗って京都駅へ。