平成16年10月24日(日)晴れ

ホテルをでて、歩いてトヨタレンタカーへ。ビッツを借ります。
8:20 トヨタレンタカー出発



 飯詰高館城跡
城跡は、小高い丘の上にあり、細い道を車で登ってゆきます。
りんご畑があり、りんごがちょうど木になって赤るんでいました。もうすぐ収穫期なのか。
 飯詰高館城の城主については、朝日氏との伝承があります。朝日氏の祖は後醍醐天皇の近臣藤原藤房で、その子景房が1344(興国5)年に築城しました。
 北畠氏が浪岡御所に入ってのちその配下として活躍し、最後の城主朝日左衛門尉藤原行安の時代を迎えたといいます。1571(元亀2)年から津軽統一に乗り出した大浦(津軽)為信によって1578(天正6)年、浪岡御所北畠顕村が滅ぽされた後も、朝日氏は大浦方に抵抗を続け、1588(天正16)年に滅びたといいます。

 城跡は主郭・東郭・西郭の3郭で構成され、丘陵の南北斜面に帯郭が階段状に数段あります。この城は、津軽平野内陸部と十三湊を結ぶ交通の要所にあたります。







所在:青森県五所川原市飯詰字福泉



 滝井館
 板柳町の東端にある滝井館跡は、南朝の北畠家一族の居城で、現在も子孫が居住しています。
 この滝井館は、永禄元年(1578年)、浪岡御所9代具運の弟・顕範(あきのり)が御所の西の守りとして築いたものです。
 天正6年(1578年)7月22日、津軽為信の進攻により浪岡城は落城、顕範の子・顕忠は盛岡方面へ逃れました。その後、慶長5年(1600年)、家臣と共に、再び当地に移り住み、代々、庄屋・医者・寺子屋師匠などの家業を続け、現在に至っています。
 後醍醐天皇下賜の「錦の御旗」、護良親王の御衣を保存しています。



 藤崎城跡
 藤崎城跡には、現在八幡宮があります。藤崎城は、岩木川右岸に築かれた平城で、本丸・西の丸は市街地となって原形をとどめていません。城内の鎮守であった八幡宮の境内付近に土塁・堀跡が残っています。
 前9年の役(1501〜62)に敗れた安倍定任の子高星丸がこの地に逃れ、その子堯恒が1092年に築いたのが藤崎城とされます。代々、安東太郎を称し、鎌倉幕府執権北条氏の御内人 でした。
 のちに十三湊へわかれた一族は、安藤(安東)水軍を率いて日本海で活躍しました。廃城は、1585(天正13年)、大浦(津軽)為信のときでした。



 水木館跡
 水木館跡は、熊野神社に接しています。
 浪岡御所北畠具運(ともゆき)の叔父具信は、断絶していた川原御所を再興し、水木一帯を支配しました。しかし、所領問題から1562(永禄5)年に浪岡御所に対して川原御所が反乱を起こし、具信父子は具運を殺害し、以後北畠氏は衰退にむかいました。




 北畠守親の墓

 田の中に、川原御所の祖、北畠守親の墓と伝えられる五輪塔があります。五輪塔は、かなり風化が進んでいます。







 北畠守親は、浪岡御所初代の北畠顕家の弟顕信の子で、浪岡に城館を構え、川原御所と称したといわれています。







 北畠氏累代の墓

 浪岡農業協同組合の施設の裏手に、浪岡御所北畠一族の墓と伝えられる五輪塔が柵のなかにあります。











 この地点から南へ200mほど行くと、川原御所の祖、北畠守親の墓と伝えられる五輪塔がありますが、両者とも風化が激しく、石組みも原形は失われています。





 中央の「北畠累代の墓」銘の碑は、明治15年の明治天皇巡幸に際し太政大臣三条実実の題字により建てられました。明治初期には数基の五輪塔が残されていた記録もあるが、戦時中に多くの五輪塔が遺失し史料的価値は低下しています。




所在:青森県南津軽郡浪岡町北中野



 川原御所の跡

 浪岡御所初代の北畠顕家の弟顕信の子守親が浪岡に城館を構え、川原御所と称した場所といわれています。その後川原御所はいったん断絶しますが七代具永のとき具永二男の具信に川原御所を継がせます。しかし1562年、川原御所の変の後に廃城となりました。
 現在は住宅地の一角に「川原御所跡碑」があるのみです。


所在:青森県南津軽郡浪岡町大字浪岡




 浪岡八幡宮
 浪岡八幡宮は、793(延暦12)年、坂上田村麻呂の建立と伝えられます。祭日は8月15日。浪岡城主北畠氏の時代から端午の競馬が行われ、殷賑をきわめたといいます。
 また、津軽為信の祖父大浦政信が、7夜、丑の時刻に参詣し、法螺貝を神前で得たとあり、この貝は一声を発すればいかなる敵も敗亡するといい、為信の統一事業達成はこの神器のおかげによるといいます。

 所在:浪岡町浪岡字林本123



 浪岡城跡
 浪岡の地に拠点をもったのは、南朝の忠臣北畠親房の子孫と伝えられています。浪岡御所と尊称された浪岡城主北畠氏の系譜は、北畠顕家(あきいえ)の子顕成(あきなり)を祖としています。また、北畠顕信の子守親もやや遅れて浪岡に入り、川原御所と呼ばれたといいます。
 浪岡城は「北畠古城跡碑」のある内館を中心に、猿楽館・東館・北館・西館の5郭がまとまり、東館の東に追手門、その先には新館が営まれ、西館の西には検校館がありました。往時は二重堀がめぐらされていたと推測されます。
 浪岡城は、1578(天正6)年、津軽為信の攻撃により落城し、北畠一族は四散しました。1977年以降、城域内の発掘調査が行われ、その成果をもとに史跡公園として整備事業が進められ、ガイダンス施設「北畠の館」も完成しました。船載の陶磁器や和鏡などの出土品は中世の館に展示されています。
北館より、内館を望む。
内館。北畠氏の館があったところ。
内館にある、北畠古城跡の碑
 浪岡城跡はすごく広いエリアです。
 よく、これまで宅地化されずに残っていたものです。

南津軽郡浪岡町浪岡字五所


 長慶天皇妃菊代姫の墓


浪岡八幡宮から東へ少し進むと、右手に赤い柵が見えてきます。なかに残る盛土(観音林)は、長慶天皇の妃菊代姫の墓といいます。左手に「史蹟浪岡城址」の碑があります。









 白山堂
白山堂は、別に皇后堂・白姫堂・白御堂・白山権現宮ともいわれています。長慶天皇の皇后、伊勢の宮菊理姫(菊子姫ともいう)の墳墓に建てられた御堂です。
 菊理姫は新田宗興の養女で、宗興が伊勢で討死以後、天皇と共に各地を転々とされ、陸奥国行岳(浪岡)から紙漉館に移られたのは、元中2年(1385)11月で、この地で盛徳皇子が誕生されたといいます。
 皇后のご逝去は応23年(1416)11月18日で、墓標に榎を植え、白山権現を祀りました。

 白山堂のお社は、民家の敷地内にあるようです。




 上皇宮に到着。車を公民館の駐車場に停めました。
 上皇宮への階段を登ってゆきます。

 上皇宮
 勧請は807(大同2)年と伝え、もと宝龍権現であったが、明治初年改祀されて籠田神社(祭神天御柱命・国御柱命)となりました。さらに、1965(昭和40)年に上皇宮と改称され、祭神は第98代(南朝第3代)長慶天皇です。天皇は南北朝時代に都の動乱を避けて潜幸されたという伝説が青森県各地にあり、当地もその一つです。
 伝説によれば、天皇が紙漉沢にたどり着いたのは、1385(元中2)年11月10日の夜という。ここで修験(山伏)常照院盛賢として歳月を過ごされたが、1403(応永10)年崩御され、上皇堂(うえのどう)(上皇宮)に葬られたといいます。その後、天皇の御陵は1944(昭和19)年、京都の慶寿院跡に決定したので、1888(明治21)年からの上皇宮近くの御陵墓参考地は廃止となりました。

 神社の横の階段を登って、さらに山道を登ってゆきます。
 上皇宮の右側の、急な山道を5分ほど登ると、長慶天皇御陵墓参考地に着きます。
 木柱には、「旧長慶天皇御陵墓参考地」を書いてあります。


所在:青森県中津軽郡相馬村紙漉沢(かみすきざわ)字山越174


少し、車を走らせて、持寄城跡へ。
 持寄城跡

 バスを降りて藤沢の集落に通じる道を歩くと、右手に見える丘陵が持寄城跡といわれ、道路わきに合戦の死者に対する供養塔(近年の建立)があります。
 鎌倉幕府の滅亡で津軽に逃れた幕府方の名越時如(なごしときゆき)・安達高景らが、大光寺城(平賀町)の合戦に敗れ、石川城(弘前市)を経てこの城に立て籠もりました。北畠顕家の指揮のもとに多田真光・南部師行らが攻撃し、激戦の末、名越・安達らは降伏または戦死しました。









所在:青森県中津軽郡相馬村藤沢字野田



 龍負山 京徳寺
 亨禄2年(1529年)、浪岡御所北畠氏6代具永により浪岡に創建された寺です。山号・寺号共、具永の法名である「龍負院京徳祐元大居士」から採ったものとされています。
 具永がこの寺に葬られ、その後北畠氏の菩提寺となりました。浪岡城落城後、高岡(弘前)城下の禅林街に移り、現在に至っています。





 十二支堂には、北畠氏累代の位牌が祀られています。

所在地 青森県弘前市西茂森1−14−1


 長勝寺
 長勝寺は、1528年に、大浦盛信が亡父光信の菩提を弔うために種里(鰺ヶ沢町)創建したといいます。1610年の弘前城築城にともなって、現在の曹洞宗諸寺を集めた禅林街の最奧部へ移されました。

 長勝寺の三門は、高さ16.2mで、国重要文化財。1629(寛永6)年に2代藩主津軽信牧が建立したものです。

 もう、暗くなってきたので、青森市内へ帰ることにします。
 弘前市から青森市内まで約45kmありました。
 国道7号線経由で帰ります。弘前から浪岡町をすぎ、青森市の境界へ入るぐらいまで、道が渋滞していました。高速の東北道を使えばよかったと後悔しました。

 青森 トヨタレンタカーに到着。
 今日は、145km走りました。燃費は、15.6km/リッター。
 ホテルに歩いて帰りました。