平成16年11月6日(土) 朝のうち曇り のち晴れ  暖かかった。

 今日は日帰りで、山梨県甲府市周辺のお寺を見てまわりました。
 テーマは、鎌倉時代末期から室町時代の僧、夢窓疎石関係のお寺を廻る旅です。
夢窓疎石(むそうそせき)1275〜1351

 鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した臨済宗の僧。
 伊勢に生まれ甲斐に移り、9歳で出家。初め天台・真言を学び、のちに臨済禅に帰しました。
 1325年(正中2)後醍醐天皇の勅請により南禅寺に、ついで北条高時の請によって円覚寺に住山。鎌倉幕府滅亡後は京都に臨川寺を開創し、南禅寺に再住しました。
 建武新政の瓦解後は足利尊氏・直義の帰依をうけ、戦没者の霊を弔うために諸国に安国寺・利生塔を、後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を建立させ、その費用を得るために天龍寺船を明に派遣しました。
 造園の才にも富み、天龍寺・西芳寺などに作庭しました。

 常磐線(始発に乗った。)、山手線を乗り継いで、新宿駅へ。
 新宿から、中央線「特急スーパーあずさ1号」に乗ります。指定席はいっぱいで、自由席にも座れません。とにかく早く行きたかったので、通路に立ったまま電車に乗っていきました。
AM8:30 甲府駅に到着。
トヨタレンタカーでレンタカー・ビッツを借ります。

まずは、一番目のお寺は、宝泉寺へ。

  宝泉寺     甲府市和田町2595

 臨済宗 宝泉寺は、甲府五山のひとつです。宝泉寺は、夢窓疎石を開山としています。
 開基の武田信武(1292〜1358)は、足利尊氏の信任が厚く、その姪を妻に迎えた人で、九州探題や安芸・若狭・甲斐などの守護を兼ね、武田氏中興の祖と仰がれました。
 宝泉寺に、その墓があります。

     武田信武の墓


 1582(天正10)年3月武田勝頼(1546〜1582)が天目山で敗死すると、その首は織田信長の命令で京都にさらされました。当時京都の妙心寺に居合わせた宝泉寺の住持快岳和尚は、ひそかに勝頼・信勝父子の首をもらいうけ、歯と髪を甲府に持ち帰りこの寺に葬りました。その場所が境内の勝頼首塚です。

       武田勝頼の墓



  東光寺   甲府市東光寺3−7−37

 臨済宗 東光寺は、鎌倉時代の創建で、のち甲府五山のひとつに定められた寺です。宋(中国)から渡来した蘭渓道隆は、鎌倉幕府5代執権北条時頼の帰依をうけて建長寺を開きましたが、天台宗との衝突のため、2度甲斐国へ配流されました。初めて配流された文永年間(1264〜1275)にここへ寺を建立し、甲斐布教の中心としました。

 現在の仏殿(国重文)は室町時代に再建されたものです。屋根が二重になっていますが、下の方は裳階という突き出し部分である。屋根は入母屋造・檜皮葺、唐様(禅宗風)建築の代表的なものです。



 庭園(県名勝)は山すそを利用し、枯滝を中心とした力強い石組みで構成され、前面には舟石のある小さな池を配しています。寺伝では夢窓疎石の作としているが、最近の調査ではもっと古く鎌倉時代の創建時の作とする見方も出てきて、京都の天竜寺の庭園に似ているといます。

 境内には、武田義信と諏訪頼重の五輪塔が接して立っています。
          武田義信の墓

 武田義信は信玄の長男に生まれ、駿河の今川義元の娘を妻に迎えていましたが、父の駿河進攻にに反対して不和となり、1565(永禄8)、この寺に幽閉され2年後に没しました。自殺ともいわれるが明確ではありません。

 また、諏訪頼重は信濃国諏訪の領主で信虎の娘を妻にしていたが、一族に内紛がおこったところを信玄に攻められて捕られられ、1542(天文11)年7月、ここで自殺しました。なお、頼重の娘は信玄の側室(諏訪御両人)となり、勝頼を生んでいます。
       諏訪頼重の墓



  須沢城跡   山梨県南アルプス市大嵐



 須沢城跡への林道はダートです。私が訪れた時の状況は、路面がかなり荒れていました。レンタカーの普通車で行ったので、途中から不安になり、車を停めて歩いて行きました。700mぐらい歩く。四駆や、オフロードバイクなら問題はないだろうと思いました。
 須沢城跡は、御勅使川を見下ろす高台にある山城の跡です。
 城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見(へんみ)孫六入道といわれています。
 現在、城跡らしいものは残っていないが、城の本丸に当たるところに室町初期のものとみられる宝篋印塔、五輪塔が数基建てられています。



 南北朝時代、貞和5・正平4年(1349)10月、高師直の圧力で足利直義が政務を上洛した足利義詮に譲ると、関東では弟基氏が管領に任じ、上杉憲顕と高師冬が執事として補佐することになり、翌年正月、師冬は関東に下向した。
 正平5年(1350年)12月に直義が南朝と和平して兵を挙げると、同25日に高師冬は鎌倉で失脚し、再起を計るべく、鎌倉より武田一族辺見孫六入道を頼って須沢城に入城しました。
 これに対し憲顕は子能憲を将に須沢城に派兵しました。また、能憲軍に呼応して足利直義党の諏訪下社祝部軍も須沢に到着、両軍は須沢城に攻撃を加えました。
 翌観応2・正平6年(1351)正月17日、諏訪氏らの兵に総攻撃を受け須沢城は落城、高師冬は自刃して果てました。

 高師冬は、南北朝時代、北畠親房がいた常陸の小田城・関城を攻めるために、現在の茨城県つくば市や関城町に来ています。


  古長禅寺  南アルプス市鮎沢505


 臨済宗 古長禅寺は、寺号を長禅寺として1316(正和5)年夢窓疎石によって開かれたといいます。武田信虎・大井夫人・信玄の崇敬が厚かったといいます。長禅寺は1552(天文21)年、信玄によって母大井夫人の死後甲府移され、以後ここは古長禅寺と呼ばれました。甲府の長禅寺は、甲府五山の第一にあげられた名刹です。

 古長禅寺の寺域には、樹齢700年といわれる4本のビャクシン(国天然)があります。このビャクシン自生地は、古くより古長禅寺の飛び地として、「お釈迦堂」と呼ばれており、開山当時四天王をかたどり、旧客殿前庭の四隅に約10mごとに植えられたもので、通称「夢想国師お手植えの四つビャクシン」と呼ばれています。





 境内の庭園(県史跡)は、夢想国師の築庭といわれています。


 この付近、甲西・増穂・鰍沢・櫛形町の一部は、平安時代末期大井荘が成立し、小笠原長清の7男朝光が地頭として活躍し、室町時代に入ると、武田信武の次男信明がこれを領し、大井氏を称しました。大井氏は、この地域に強大な勢力をふるい、大井信達は武田信虎とたびたび対立抗争をしています。しかし、1517(永正14)年信虎に降り、信達の女は、政略結婚で信虎夫人となり、信玄の母となる。大井夫人は、法号長禅寺殿といい、両長禅寺に葬られています。


 法善寺   山梨県南アルプス市加賀美

 この寺は、822(光仁13)年創建され、初め寺部にあったが、その後加賀美遠光の館跡の現在地に移りました。遠光の孫遠経が中心となり、諸伽藍を建設し、高野山から覚応和尚を招いて中興の開山としたといいます。武田家累代の祈願時となり、武田信玄の帰依も深かった。

 加賀美遠光は、1143(康治2)年源清光の子として生まれた。武田氏の始祖太郎信義の弟にあたる。南アルプス市加賀美に居館し、櫛形町・甲西町・増穂町・甲府市南部、それに塩山市の一部を治め、強大な勢力を誇りました。
 源平の戦いには、甲斐源氏の諸族とともに参加し戦功があった。富士川の合戦・一谷・屋島・壇ノ浦に連戦し、その功により信濃守兼北陸道探題となりました。また、1189(文治5)年の奥州平定にも大将として参画し功をたてています。
 次男の小笠原長清ほか、南部三郎光行、於曽五郎経行は栄えました。小笠原長清は信濃守となり、子孫が継承しており、陸奥国盛岡の領主となった南部氏とともに、近世まで大名として続いていました。遠光の墓は、彼の開基である甲府市の遠光寺にあります。

  宝寿院

 真言宗 宝寿院の山門を入り坂を登ると、庭園がある。この庭園は夢窓国師の作庭と伝えられる名園です。



 この丘を平塩の丘といい、平安時代天台宗白雲山平塩寺のあった所といわれます。寺坊が100を数えたいわれ、夢窓国師の母も住したと伝えられています。現在の宝珠院はその坊のひとつであったとされます。
 鎌倉時代の末期(1278年)、夢窓国師一家が伊勢より当地へ移る。国師4歳の時、母を失い、平塩寺で得度を受けます。その後、奈良の戒壇院で修業を積み、31歳の折、再び甲斐の国へ戻ります。夢窓は母の追善供養のため、法寿院境内に築庭し、しだれ桜を植えたといいます。

この寺の枝垂れ桜は有名です。 もともとは、夢窓国師お手植えの桜でしたが、現在の桜は第六代目で、樹齢200年が経過しています。国師が母の追善供養のため植えたものであるといいます。

  清白寺  山梨市三ヶ所620


 清白寺は、足利尊氏が夢窓疎石を開山として創建したと伝えられる臨済宗の寺院です。
寺の参道は入口から両側に甲州小梅が立ち並び、総門を入った放生池のうえにコンクリートと木造の鐘楼が再建されています。建物は江戸時代の1682(天和2)年の火災のために仏殿を残して焼失しました。現在、周囲を桃やブドウ畑に囲まれた境内には、総門・放生池・山門・仏殿・法堂が一直線上に禅宗様に配置され、小規模ながらまとまった伽藍を有しているが、仏殿以外は、江戸時代のものです。

 唐様建築の典型的な仏殿(国宝)は、鎌倉の円覚寺舎利殿に匹敵する天下一品の建築物です。1917(大正6)年の解体修理の際、墨書銘が発見され、1415(応永22)年の再建とわかりました。純唐様の仏殿で3間四方、一重裳階付き、入母屋造、檜皮葺です。


  浄居寺   東山梨郡牧丘町浄古寺

 浄居寺は、曹洞宗大泉寺末にして、山号を常牧山といいます。
 浄古寺には、夢窓国師の築庭と伝えられる名園があります。 この庭園は、夢窓国師29歳から31歳の頃の築庭と伝えられます。規模は僅かである、自然を生かし優雅な趣があります。



  恵林寺   塩山市小屋敷2280

 臨済宗 恵林寺は、武田氏の菩提寺、信玄の牌所です。1330(元徳2)年、領主二階堂道蘊が夢窓国師に帰依し、自宅を禅院に改めて国師を開山として創建したのに始まるといわれます。甲斐の臨済禅(妙心寺派)の中心として全盛を極めました。

 永禄年中(1558〜1570)に武田信玄が寺領300貫文を寄進し、1564(永禄7)年には快川紹喜(かいせんじょうき)を招き住持としました。1582(天正10)年4月3日、織田信長によって焼かれ、快川和尚は一山僧衆百余名とともに山門楼上で焼殺されました。このときの快川和尚の「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」との偈のことばは有名です。
      再建された現在の山門


 1585(天正13)年、徳川家康が伽藍を再興し、享保年間(1716〜1736)に柳沢吉保が補修し現在に至っています。境内地は約3万平方m、諸堂立ち並び威風堂々たる大寺院の格式です。
 四脚門(国重文)は総門と山門の中間に位置し、「赤門」と呼ばれる。切妻造、檜皮葺です。桃山時代の豪壮な様式を伝えています。1606(慶長11)年に再建しました。山門(県文化)は、信玄の禅の師匠たる快川国師らの火定の因縁深き場所であり、室町時代末から桃山時代初期にかけてつくられたものと考えられています。
 恵林寺庭園(国名勝)は、1330(元徳2)年、夢窓国師が作庭したと伝えられます。面積2、200平方m、上段は枯山水、下段は心字形の池に築山を配した池泉回遊式庭園であり、背後の乾徳山を借景としています。




 武田信玄は、1573(元亀4・天正元)年に病没し、1576(天正4)年に、恵林寺に葬られました。信玄の墓(県史跡)は、1672(寛文12)年、信玄の100年忌に再建されたものです。右側に五輪塔、左に宝篋印塔の墓があります。




  慈雲寺   塩山市中萩原352

 天龍山 慈雲寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。暦応年中(1337〜1342)に夢窓疎石が開創したと伝えられています。一時衰えましたが、元禄年間に再建され、寺には1691(元禄4)年の棟札があります。

 境内の入口に、明治時代の女流小説家樋口一葉の文学碑が建っています。幸田露伴の撰文です。

PM6時すぎに、甲府駅前のトヨタレンタカーへ車を返しました。
帰りの特急の指定席の切符を買ってから、甲府の駅ビルで食事。
甲府駅19:42発の特急スーパーあずさ34号に乗ります。指定席はがらがらでした。
新宿まで、ゆっくり眠って帰りました。
山手線を日暮里で乗り換えて、常磐線に乗ります。常磐線も日暮里から座って帰れました。