平成16年12月 雨のち晴れ

 空に雲が多いです。

 トヨタレンタカーへ。レンタカー・ヴィッツを借ります。
 出発。小牧市へ向かいました。

 昨日まで天気予報を見ると、今日は晴れのはずでした。レンタカーを運転し始めると、雨が降り出してきました。 今回の旅行は、雨は降らないと思って、傘を持ってきませんでした。
しかたなく、コンビニを見つけて、傘を買います。700円で、携帯用の傘があったので、それを買いました。

 小牧山に到着。
 時間が経てば雨が止むかと思い、小牧山の近くのデニーズに入り、朝食を食べます。

 デニーズを出て、小牧山ふもとの小牧市役所の駐車場に車を停めました。
 雨が小降りになってきました。



 小牧山  標高 89.5m 国史跡
 小牧山は、濃尾平野を海とすれば、その海に浮かぶ緑の島のようなものです。ここだけ、ぽこんと平野のなかで小高い山があるような感じです。
 小牧山が歴史上の檜舞台に出たのは二度あります。
 まず、最初が織田信長が、美濃を攻略するための足がかりとして、清洲城から、この小牧山の山頂に城を築きました。これが小牧山城です。
 次ぎに、豊臣秀吉と徳川家康の戦い、小牧・長久手の戦いです。小牧山に織田信雄・徳川家康連合軍の本陣が置かれ、豊臣秀吉の犬山城と対峙しました。
 現在、小牧山山頂には、城が建てられ、小牧市歴史館となっています。




愛知県 春日井市に向かう。

内々(うつつ)神社に到着。
内々神社は、愛知県と岐阜県の県境に近い、愛知県春日井市にあります。



 内々(うつつ)神社
 内々神社は、起源が古く、しかも日本武尊の伝説と深い関係があります。
 主祭神は尾張氏の祖建稲種命(たけいなだねのみこと)であり、これに日本武尊、宮簀姫命(みやずひめのみこと)を配しています。
 昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願して、この社頭から軍船用の帆柱を伐り出したといわれています。また、篠木荘33ヶ村の総鎮守でもありました。神社と密接な関係にある妙見寺は、室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創されました。

 社殿の裏にある廻遊式林泉型の庭園は、夢窓国師作といわれています。
 神社に、お寺の高僧が作った庭があるというのが、不思議です。昔は、神社とお寺の区別がそれほど厳密ではなかったのでしょうか。




岐阜県 多治見市に向かいます。


 虎渓山 永保寺の駐車場に到着。広い駐車場がある。今日は人が少ないが、有名なお寺です。
 歩いて、線路を渡り、駐車場から約400mほど歩きます。

 虎渓山 永保寺

 永保寺の拝観は無料ですが、建物の中は見ることができません。庭を散策し、建物の外観を見るだけです。それだけで充分満足です。

 虎渓山永保寺(臨済宗)は、土岐川のほとりにあります。
 鎌倉末期、夢窓疎石ら一行が、この深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名づけられました。


 開山は夢窓疎石の法弟の元翁本元(仏徳禅師)、開基は長瀬入道道仁(頼氏)です。
 1339年(暦応2)年、北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、30余の僧坊が並んで隆盛を極めました。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として続いているのは、保寿院・続芳院・徳林院のみです。
 永保寺庭園(国名勝)は、夢窓疎石の初期の作庭として知られ、西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩借景としています。「虎渓36景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきました。






観音堂(国宝)

 観音堂は、1314(正和3)年の建立で、寺で一番古い建物で、一重裳階付入母屋造で、唐様と和洋の折衷様式です。







開山堂(国宝)

 庭園奧の開山堂は、室町初期の唐様建築である。入母屋・檜皮葺の方三間の礼堂と方一間の祠堂からなっています。



拝観していると、また雨が強く降り始めました。

 多治見国長邸跡に到着。


 多治見国長邸跡

 多治見市の商店街・多治見銀座のアーケード入口から入ったところに、多治見国長邸跡(県史跡)があります。
 多治見国長は、鎌倉時代末の土岐氏一族の武士で、後醍醐天の正中の変に参加しましたが、計画が露見し、鎌倉幕府の京都における出先機関・六波羅探題に攻められ討死しました。
 記念碑のある所から西南に約100m四方が館跡といわれ、明治の初め頃まではわずかに土塁も残り、御所屋敷と呼ばれていたそうです。


見学してから、近くのラーメン屋で、ミソラーメンを食べます。寒いので、暖まりました。

瑞浪市にある鶴ヶ城跡へ向かいます。
だんだん、空が晴れて明るくなってきました。

瑞浪市にある鶴ヶ城跡がわからなくて、近くまできて、地元の方にお聞きしました。

鶴ヶ城跡に到着。
中央自動車道のすぐそばの丘陵にあります。


 鶴ヶ城跡
 中央自動車道の側道際の小高い場所に、城跡の記念碑があります。
 車を停めて、本丸跡まで上る。約5分ぐらいで本丸跡に着きます。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、美濃の支配者はこの地に多くの出城を築城したが、この鶴ヶ城跡はその本城といわれます。
 この城の位置は、当時の鎌倉街道から土岐郡への入口にあたる。、南北を見渡す山城の様式を示しています。
 ここを居城としていた土岐頼兼は、正中の変(1324年)に加わりました。
 二代守護頼遠は、居館を岐阜の地長森に移しました。

本丸跡










 一日市場(ひといちば)館跡  瑞浪市
 土岐郡(現瑞浪・土岐・多治見の各市と笠原町)は、美濃源氏土岐氏の発祥の地であす。
 清和天皇の流れをくむ源光衡は、鎌倉初期に美濃国守護として、土岐姓を名乗り、一日市場館(瑞浪市土岐町)に住みました。土岐氏の発祥の地です。
 現在は、八幡神社が建っています。





 土岐頼貞の墓と土岐氏累代の墓
 瑞浪市 
 土岐頼貞は、土岐氏中興の祖と呼ばれ、以後11代続く美濃国守護としての基礎を築きました。
 頼貞は、その子頼清や頼遠らとともに元弘の変(1333年)に後醍醐天皇の令旨に応じて、足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒に功を挙げました。
 その後、建武の新政に不満を抱いた尊氏が挙兵すると、それに従い、「土岐絶えば是(足利)絶ゆべし」とか、「諸家の頭、筆頭の将」と称されるほどの信任を得たといわれます。
 頼貞の在銘のある宝篋印塔は、西方の墓所の五輪塔に隣接して建っており、その他の石塔群は、頼貞以前の累代や一族のものと伝えられています。

土岐氏累代の墓



もう、すでに薄暗くなってきたので、名古屋市内へ向かいます。
名古屋市内に到着。
ガソリンをいれました。燃費は、20.3km/リッターでした。ずいぶん燃費がいいです。