平成16年12月 曇り のち晴れ 夕方ときどき雨

ホテルをチェックアウト
名古屋駅に向かい、余計な手荷物をコインロッカーに預けました。

賢島行きの近鉄特急に乗ります。
松阪駅に到着。下車。

駅前のトヨタレンタカーで、ヴィッツを借ります。


松阪市 浄眼寺前の駐車場に到着。
寺のそばに、市観光協会の駐車場があります。
これから、山城である阿坂城跡に登ります。

登山開始。
最初は、コンクリート舗装で、急な坂道になっています。



400〜500mで、土の道を歩きます。
道の両側は雑木林で、里山です。
道もある程度広いです。







 歩き始めて、約30分ほどで、北郭の椎ノ 木城に着きました。きれいに草が刈ってあります。


 椎ノ 木城から、下ってまた登ります。





 白米城跡に到着。約40分ほどかかりました。駐車場の説明版に書いてあった時間どおりです。
 私は、今まで自分を健脚な方だと思っていました。説明版の登山時間設定は、きびしすぎないか?それとも、私の足が衰えたのか?

何もさえぎるものが無いので、吹いてくる風が体に当たります。


 阿坂城跡 (別名 白米城)

 阿坂城跡は、標高300 m余の山頂に築かれた山城で、南北300 m、東西150 mの範囲に及びます
 南北二つの郭からなり、北郭を椎ノ 木城、南郭を白米城とも呼び、台状地を中心に堀切り、土塁等が配されています。
 阿坂城は、文和元年(1352)の南北朝の争乱を伝える資料に初めて登場するが、もっともよく知られるのは応永22年(1415)に北畠満雅(みつまさ)が足利幕府軍を迎え撃った戦いです。籠城する満雅は、馬の背に白米を流して水があるように見せて、水断ち作戦に出た幕府軍を欺き撃退したと伝えます。
 その後、永禄12年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は大軍を発し、先ず北畠の重臣大宮氏の守る阿坂城を落とし廃城に至りました。

 阿坂城跡からは、360度四方が見渡せます。




林の中を歩いていると、風を受けなくてよいです。

浄眼寺の駐車場に到着。

 浄眼寺
 浄眼寺を見学。
 浄眼寺(曹洞宗)は、伊勢国司北畠氏の菩提寺です。









津市 片田井戸町に到着。

金剛山瑞林寺を探します。交番で住宅地図を見せてもらい、場所を教えていただきました。
道が狭くて、お寺まで車で行けません。コンビニに車を停めて、お寺まで歩いてゆきました。

 金剛山 瑞林寺


 このお寺がある所は、鎌倉時代から室町時代にかけての名僧、夢窓疎石の生誕地です。




鈴鹿市 三宅町に到着。

ここにも、夢窓疎石の生誕地の言い伝えがあります。
場所がわからなかったので、道を歩いている女性の方にお聞きしました。
鈴鹿市役所の出張所でもお聞きしました。
近くの合川小学校に行けばわかるといいます。合川小学校で教えていただきました。


合川小学校は、丘の上にあるが、そこにお寺がありましたが、廃寺になっています。
小学校の丘が、夢窓疎石の生誕地だったといいます。現在は、合川小学校が建っています。

 夢窓疎石の産湯の井戸

 夢窓疎石(1275〜1351)は、鎌倉時代から南北朝時代における臨済宗の高僧で、北条氏・足利市・後醍醐天皇の帰依厚く、京都天龍寺・西芳寺(苔寺)・鎌倉瑞泉寺・多治見永保寺・甲斐恵林寺などを開くとともに、これらの寺の造園にすぐれた技術を残したことでも知られています。
 国師の出生地はこの東の岡(国師山とも称する)にあった真言宗淋勝寺跡に生まれたと伝えられています。
 寺は戦国時代を経て廃絶していましたが、享保2(1717)年天龍寺の僧天琢がこれを再興し、臨済宗曹源山輪聖寺と改宗改名し、開山堂・山門等を南の山上に建立しました。しかしその後、たびたび無住の時があり、現在は開山堂の跡のみを残しています。
 産湯の井戸も、もとは合川小学校の登り口近くにあって、享保再興の時、立派な覆い屋が設けられ、正面には「国師灌沐泉天龍寺」の額が掛けられてありました。その後、小学校用地拡張の際、この井戸も埋められたので、その跡を移したのが、現在の産湯の井戸です。





楠町 楠城跡に到着。

 楠城跡
 楠城は、もと楠山城と称し、伊勢国司北畠顕能の子顕泰が、正平24(1369)年に築城し、諏訪十郎正信を初代城主としました。ここは、東は海に、他の三方は三つの川に囲まれた島のようで要害の地でした。
 諏訪氏三の後、楠正成の子・楠十郎正信が城主となり城を継ぎます。その後、天正12(1584)年8代正盛の時、秀吉に攻撃され落城しました。



四日市市 伊勢国安国寺跡に到着。

 伊勢国安国寺跡
 安国寺は、旧名西明寺といいます。
 伊勢安国寺の第一祖になった虎関師錬の紀年録には、西慶元年(1332)、後醍醐天皇の勅願により安国寺と改称されたと記されています。
 室町期には、僧坊も十数院あって華を極めましたが、天正年間(1573〜1592)、織田信長の武将滝川一益の兵火にかかって炎上したと伝えられます。
 伊勢安国寺の総面積は、9900平方mほどあったと推測されますが、現在は大部分が住宅地になっているため、約700平方mが文化財に指定されています。

雨が降ってきました。

菰野町 千種城跡に到着。
非常に寒いです。


 千種城跡

 千種城跡(県史跡)は、菰野町千草の集落はずれの丘陵の先端にあります。







 この地を領し、戦国期に北勢48家の一つとして勢威を誇った千種氏は、南朝に仕えた千種忠顕の後裔といわれます。
 南北朝時代、1369(正平24)年美濃土岐氏の来攻に対し、国司北畠氏は千種顕経を三重郡に派遣し守らせました。
 1540(天文9)年近江六角氏は千種城を攻略し、千種氏を服属させたが、1568(永禄11)年には織田信長の伊勢進攻によって落城しました。



 菰野町 禅林寺に到着。
 禅林寺

 禅林寺は、もと天台宗で、七堂伽藍を有した古刹であったといいます。
 千種顕経は、忠顕の次男といわれ、禅林寺を菩提寺として復興し、1502年大光国司を招いて開山としました。


もう、天気が回復しないし、時間も遅いので帰ることにしました。
桑名駅に向かいます。
レンタカーは、桑名駅前で乗り捨ての予定です。

桑名駅近くで、ガソリンを給油。燃費は、17.5km/リッターでした。
桑名駅前のトヨタレンタカーで、車を返しました。
JR桑名駅からJR関西本線で、名古屋駅に向かいました。

名古屋駅到着。
名古屋から新幹線で東京へ帰りました。