平成17年2月 曇り
名古屋の歴旅 2日目その1

名古屋市内のトヨタレンタカーで、ビッツを借りました。
まず、清洲城跡へ。


 清洲城跡
 今日、清洲(須)城跡は、その中央部分に新幹線と東海道本線が通り、南北に分断されています。南側の清洲公園は、本丸のあった場所と推定されており、現在、織田信長の銅像が建てられています。線路をくぐった北側の古城跡の小丘には、天守閣があったと推定され、信長を祀る祠が建てられています。



 清洲城は、応永年間(1394〜1428)に尾張の守護斯波義重によって築かれたと伝えられ、1476(文明8)年に下津(おりつ)城にあった守護所が移ってから、その名が広く知られるようになりました。
 1555(弘治元)年、織田信長が一族を破って入城し、天下統一の拠点にしようとしました。信長は、その後居城を小牧・岐阜・安土と移し、統一事業を拡大していきましたが、清洲は戦国から江戸初期を通じ尾張の経済の中心として発展を続けました。
 しかし、徳川義直が城主となってまもなく、1610(慶長15)年、家康の命によりいわゆる「清洲越」が始まり、清洲城は解体され、多くの木材・石材が名古屋へ運ばれ再利用されました。現在の名古屋城西北隅櫓、通称清洲櫓は、清洲域の小天守の用材を用いてあるといわれる。
「思いがけない名占屋がでぎて、花の清洲は野となろう」とうたわれ、百を超える寺や神社、70に近い町や橋の名が名古屋に移されました。清洲はその後、美濃路の宿易町として復活するが往時の隆盛を取り戻すことはありませんした。
 1989(平成元)年には、五条川を挟んだ対岸に清洲城が再建されました。

 この現在の清洲城は、清洲城跡の五条川をはさんだ対岸に復元されたものです。
 清洲城跡に復元できるスペースがなかったのか、どうしてもそこに造るしかなかったのか理由はわかりません。歴史的考証としては不思議です。


    織田信長の銅像
 この信長像はかっこいいです。私が信長に思っているイメージと同じです。


  発掘された清洲城石垣が復元されたものです

 所在:西春日井郡清洲町清洲字古城 mapion

 総見寺(臨済宗)
 織田信雄が、1582(天正10)年京都本本能寺で生涯を終えた父信長菩提のため、翌年伊勢国大島付(現三重県長島町)にあった安国寺を清洲(須)に移したものです。その後、名古屋城築城に際し、現在地に移りました。背は古杉が多く茂り、閑寂な地であったといわれますが、今はその面影はないです。なお寺宝に信長ゆかりのものが多いということです。


mapion
 万松寺
 万松寺(曹洞宗)万松寺があるところは、かつては門前町としてに賑わいましたが、戦災にあい、戦後の都市計画により新しく生まれた町です。  万松寺は1540(天文9)年、織田信長の父信秀が名古屋村(現中区・北区・西区あたり)に、大雲永瑞を開山として建立した寺です。
 そして1610(慶長15)年、名古屋城築城のとき、現在地に移りました。移転後も藩主の信仰厚く栄えましたが、戦災で多くを失い、昔の面影はありません。
 なお、この寺は、ここで信秀葬儀が行われた際、信長が抹香を仏前に投げつけ、「大うつけ」の名をとったことや、「身代わり不動」の名で人々に知られています。1570(元亀元)年、信長は越前の朝倉氏を攻めた待り道、琵琶湖付近で鉄砲でねらい撃ちされました。弾は信長が懐中に入れていた干し餅(兵糧)にあたり難をまぬがれました。この餅は、信長が万松寺の和尚からもらいうけたものだったので、のちにこの話を聞いた加藤清正が、「身代わり不動」と命名したといいます。毎月28日、境内で餅をつき配っています。
 万松寺は、大須商店街の中にあります。

mapion
 政秀寺(臨済宗)
 若き日の織田信長の守役となり、死をもっていさめた平手政秀の菩提を弔う政秀寺です。
 門が閉まっており中には入れませんでした。






mapion
 大須観音
 真福寺(真言宗)は、正式には北野山真福寺宝生院といいます。創建の地名をとって大須観音の俗称で人々に親しまれています。この寺はもともと今の場所ではなく長岡庄大須郷(現岐阜県羽島市)にありました。14世紀に後醍醐天皇が勅願を下し、大須郷に北野天満宮を造営、伊勢の能信上人を別当職に補しました。その後、寺領1万石に及び、末寺も遠く伊勢・三河・遠江・信濃にまで及ぶほどになり、織田信長からも寺領500石を受けています。
 しかし、戦乱や度重なる木曽川の氾濫のため荒廃したので、1612(慶長17)年、徳川家康は成瀬正成に命じて洪水の恐れのない現在地に移しました。
 現在では、かつての壮大さはみられないというが、なかなか堂々とした御堂です。
 境内に、エサがもられるためか、ハトがたくさんいます。

 名古屋市中区大須2-21-47 mapion

 東別院と古渡城跡
 古渡城跡
 東別院(真宗大谷派名古屋別院)の山門をくぐると、左手に「古渡城趾」の標柱があります。古渡城は、織田信秀がそれまでいた那古野城を子の信長に譲り、その南4kmの地に新たに築いた城です。築城は1534(天文3)年、東西140m・南北100mの平城で、四方を堀で囲い東からの攻撃に備えたといわれます。その後、信秀は末森城(現名古屋市千種区)に移り、信長も清洲(須)城に入ったため廃城となりました。今では昔の面影はないです。

東別院
 廃城となったこの地を、二代尾張藩主徳川光友が寺に寄進しました。これが「お東さん」「御坊さん」の通称で人々に親しまれている東別院の始まりです。開基の本願寺16世一如上人は1690(元禄3)年、光友の許しを得て、当初この地にあった京都泉龍寺支坊を御坊としました。  以来、多くの門徒を集め、文化・文政年間(1804〜1830)には、諸堂宇が再建されました。その規模は名古屋城下の南にそびえ立っていたいわれますが、そうした堂宇も、ほとんど太平洋戦争で失い、現在の堂宇は1962(昭和37)年に再建されたものです。

所在:名古屋市中区橘2-8-55 mapion

 善照寺砦跡
 このあたりから、低い丘陵が続く地域になります。丘陵と丘陵の間は、谷のようになっています。
 砦跡は、現在公園になっており、名前が「砦公園」となっています。  善照寺砦跡は丘陵上にあり、下の方から見たところです。

 善照寺砦は、桶狭間の戦いの前年、1559(永禄2)年に今川義元方の鳴海城に対抗して織田信長が築いたもので、桶狭間奇襲の直前、信長はこの砦に兵を集結したと伝えられています。現在は砦公園となっています。
mapion
 鳴海砦跡
 鳴海城は、根古屋城ともいい応永年間(1394〜1428)、安原宗範によって築城されたと伝えられます。桶狭間の戦いのときは、今川方の武将岡部元信がこの城に配置され奮戦したといいます。

 鳴海砦跡は、幹線道路がとおり、住宅街になっています。



鳴海神社 鳴海神社にある、鳴海城跡の石柱

mapion
 丸根砦跡
 大高緑地からの丸根砦跡遠望  丸根砦跡

 根砦跡(国史跡)は、標高35mの丘陵上の見通しのよい位置に築かれ、桶狭間の戦いの際には、信長の武将佐久間盛重が守っていまいが、徳川家康の鉄砲隊の攻撃をうけて陥落しました。現在ここに「丸根砦址」の標注が立っています。
mapion

 鷲津砦跡
 大高駅のすぐ東側の谷に鷲津山といわれる丘陵上に、織田信長が1559(永禄2)年に築いた鷲津砦跡(国史跡)があります。対峙する今川方の大高城から北東へ約800mの距離です。桶狭間の戦いでは、飯尾近江守定宗・信宗父子らが守っていましたが、今川方の朝比奈泰能の軍勢に攻められ大半が討死しました。林の中に「鷲津砦址」の標注が立っています。

  鷲津砦跡は、公園・緑地・宅地になっているようです。
鷲津砦公園 「鷲津砦址」の標注

mapion
 大高城跡
大高城跡 遠望 大高城跡 本丸
 大高城(国史跡)は、永正年間(1504〜1521)頃に築城され、城主は花井備中守と伝えます。天文年間(1532〜1555)頃には水野忠氏の居城となりました。水野氏は初め今川方に属していましたが、のち織田氏に従ったことから、1559(永禄2)年に今川方の鳴海城主山口佐馬助によってこの城は攻め落とされました。これに対抗して織田信長は鷲津砦・丸根砦を築いて今川方の城となった大高城の兵糧攻めを計画しました。そこで、今川義元は、当時配下にあった徳川家康に大高城への兵糧輸送を命じ、これにこたえて家康はみごとにその大任を果たしました。これが有名な大高城兵糧入れです。桶狭間の戦いの折には家康がこの城を守っていましたが、義元の敗死により岡崎にひきあげ、廃城となりました。

大高城跡より、丸根砦跡方面を望む

mapion