平成17年2月 曇り

名古屋の歴旅 2日目その2


 桶狭間古戦場公園    mapion
 桶狭間古戦場跡の伝承地は、名古屋市と豊明市とに2箇所あります。
 名古屋市緑区桶狭間北3付近にあるこの公園も、桶狭間古戦場跡といわれています。1560(永禄3)年5月19日、織田信長27歳の時、わずか3千余の手勢を率いて、折からの風雨に乗じ、2万5千余の今川勢の本陣を急襲し、義元を倒しました。
 信長が天下統一の第一歩を踏み出した、有名な桶狭間の戦いの主戦場はこの付近一帯であるといわれています。
 昭和の頃に、名古屋市桶狭間北部土地区画整理事業により、この周辺にあった桶狭間の戦いに関する石碑等が、この公園に集積されたようです。

桶狭間古戦場の碑

 この碑は、鞍流瀬川(くらながせがわ)より発見されたもので、正面は桶狭間古戦場、裏面は文化13年丙子五月建とあるが途中で欠損しています。
 鞍流瀬川は、昭和61年区画整理により埋め立てられ、現在は暗渠になっています。
 鞍流瀬川は、かつて田楽坪の東を流れる川で、戦いすぎて人馬の血潮に染まった川の水に、馬の鞍が流れていたところから鞍流瀬と呼ぶようになったといいます。



桶狭間古戦場公園 区画整理地の団地の中にある公園です。
 義元公の霊を鎮める「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻んだ墓標があり、この付近から義元公の亡霊が氏蛍となって西方(京都)に飛ぶという伝説があります。
今川義元馬繋ぎのねず(杜松・としょう)
 田楽坪地内にあり今川義元がこの地に休息の折、駒をつないだという「ねず」の枯木があります。
今川義元公水汲みの泉
 今川義元公がこの地に休息の折、水を汲み喉を潤したという「義元公水汲みの泉」があります。別名「義元公首洗いの泉」ともいいます。

 馬繋ぎのねず・水汲みの泉は、ほんとかなという感じがしました。

 長福寺 mapion
 長福寺(浄土宗)の本尊の木造阿弥陀如来坐像は、今川義元に仕えた茶坊主林阿弥が桶狭間で敗死した義元を供養するために当寺に納めたものと伝えられています。  またこの寺は合戦の際、織田方に捕られられた林阿弥が義元の首実検検証に立ち会った所とされ、境内に「義元公首検証之跡」の碑がある。本堂には義元とその家臣松井宗信の木造が安置されています。


この頃から、空が晴れて、太陽の日ざしが射してくるようになってきました。

 戦評の松 mapion
 1560(永禄3)年桶狭間の合戦のとき、今川方の将瀬名伊予守氏俊が、この松の根元に武将を集め戦いの評議をしたと伝えています。
 この松は昔から村人に、「一本松」とか「大松」と呼ばれ親しまれていたが、昭和34年9月、伊勢湾台風の被害を受けて惜しくも枯死しました。現在のものは、昭和37年に植樹した二代目です。



 史跡 桶狭間古戦場伝説地
 ここが、豊明市にある桶狭間古戦場伝説です。
 駿河・遠江・三河の3国を制圧した今川義元は、は1560(永禄3)年、約2万5千の大軍を率いて尾張に迫りました。これを迎え撃ったのが織田信長です。信長の軍勢はわずか3千ほどでした。信長はわずかの軍勢ではありましたが、雷雨に乗じて今川の本陣を奇襲し、見事勝利を収めました。これが桶狭間の戦いです。



 この地には、1771(明和8)年に建立された七石表があり、その1号碑には、「今川上総介義元戦死所」と刻まれています。そのほか1876(明治9)年に立てられた今川義元の墓、1807(文化4)年に立てられた弔古碑などがあり、古戦場としてはこうした関係で豊明市栄町が「伝説地」として国の指定をうけ、現在では公園となっています。しかし、義元敗死の地の確かな記録はなく、名古屋市緑区の桶狭間という説もあります。







今川治部大輔(じぶだゆう)義元の墓
 駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、1560(永禄3)年5月19日に織田信長の奇襲に遭い、この地で倒れました。ここには、その霊が祭られています。




 所在:豊明市栄町南館11 mapion
 高徳院 mapion
史跡桶狭間古戦場伝説地の向いにある高徳院。 高徳院の境内にある、今川義元公本陣の跡になります。


 戦人塚 mapion
 戦人塚(国史跡)は、1560(永禄3)年、桶狭間の戦いに敗れた今川軍の戦死者2千5百人余を曹源寺2世快翁龍喜和尚が埋葬、供養した塚です。塚の中央には高さ1mほどの戦人塚の石碑があります。この石碑がいつ立てられたかは不明ですが、1739(元文4)年、180回忌の供養祭に建碑されたものといわれています。なお、この塚は異説には、織田信長が部下に今川軍の死者を調べさせ、その遺骸を集めさせた塚であるともいわれています。


 沓掛城址 mapion

 沓掛城は今川義元は桶狭間の戦いの前夜にこの城に泊まり、出陣していったことが有名です。
 城主近藤景春は今川軍に従い、沓掛城を死守していたが、義元の戦死後信長軍に城を攻めとられ、景春は戦死、城は空城となりました。その後、沓掛城は織田信長の勢力圏に入り、簗田出羽守政綱・左衛門太郎父子、信長の異母弟の織田越中守信照、川口久助らが居住していました。
 豊明市は城跡を史跡公園として整備を進め、このため1981(昭和56)年から1984年にかけて発掘調査が行われました。現在は本丸・空堀・諏訪曲輪などの遺構が残るのみで、当時をしのぶよすがもないですが、江戸時代中期と考えられる蓬左庫蔵の「沓掛村古城絵図」と対比すると、遺構は当時とほとんどかわっていないことがわかっています。

 豊明市から、また名古屋市に戻ってきました。名古屋市内の幹線道路は道が込んでいます。

 末森城址
 末森城は、織田信長の父信秀が、三河の今川に対する防備を目的に、1548(天文17)年、東山丘陵の地形を利用してつくったものです。標高43mの平山城で、本丸を中心に西に二の丸を設け、二重堀をもっていました。しかし、翌年信秀は病死、信長の弟信行が城主となったが、信長と対立しました。まもなく、信行は信長に殺され、1558(永禄元)年廃城となりました。今では、境内にある「末森城址」の石標と空堀が昔の名残をとどめています。なお現在、丘の上には城山八幡宮が祀られています。

所在:名古屋市千種区城山町2 mapion

もう、夕方5時近くなってきたので、名古屋駅方面へ帰ることにします。
車を借りたトヨタレンタカーに車を返却しました。
地下鉄で名古屋駅へ向かいます。
これで、旅を終え新幹線で東京へ向かいました。