今城(いまんじょ)

平成17年 3月13日(日) 訪問 晴れ

 歴旅とういう程ではありませんが、家の近くの守谷市(茨城県南)にある城跡を見にゆきました。守谷市のホームページを見ていて、今城(いまんじょ)という城をを知り、地図も持たずにやってきました。
 ホームページで城がけやき台にあるのだけは、わかっていたのですが、広くてなかなかわかりません。294号線の方をうろうろして、とても見つかりそうにないので、歩いている方にお聞きしました。幸いにも、すぐわかりました。

 今城は、住宅団地になっています。地形は、丘陵が低地に張り出した半島というか、島のような形です。











 場所は、ジョイフル本田に近い、守谷市けやき台3丁目のうららか公園が城址公園になっています。回りはすっかり住宅街で、ここも昔は城だったかもしれません。
 城跡には小高い丘があり、階段を登ると、くぬぎの木が生えた広場にのようになっています。小高い丘が、本丸だったのか、土塁と曲輪らしきものがあるだけです。

 今城の由来の看板が無いと、ここが城跡とは気づきません。
     今城(いまんじょ)の由来

 この公園は、今城の城址公園です。
 今城とは、今造られた城(新しい城)という意味で、正しい城の名前ではないと思われるが、昔から「いまんじょ」と呼ばれています。
 城の様式が極めて単純・素朴にできているので、戦国時代より以前に築かれた城ではないかと推測されています。
 そしてこの城は、一定領主のための城ではなく、戦時用の城砦と見られています。
 興国元年(暦応3年・1340)、日本の国内が南北朝に分れて激しく争われていた頃、守谷に居た相馬忠重が、南朝の味方をして城を築いて北畠顕国を迎えたという記録があるので、その時の城がこの今城ではないかと考えられます。
 顕国はその後北朝軍に攻められ敗退しています。この城は、南朝の英勇北畠親房が、最後に拠った大宝城や関城と構造が良く類似して、自然を利用した簡単な土塁を造った程度の城です。
 いずれにしても、当時守谷の祖先達は、南朝側に味方して、錦の御旗を立てて気勢を挙げ、日本の歴史の流れに大きな役割を果たした由緒深いであることは間違いないと思われます。

         守谷市教育委員会

 ここに、南北朝時代、南朝方の公家の出で、武将でもある、春日中将顕国が来た可能性が高いそうです。顕国は、不思議な人です。北畠一族といわれていますが、北畠親房・顕家父子との関係がよくわかりません。
 1338年9月、北畠親房が常陸にやってきた後、北畠一族といわれる顕国がやってきたのですから、かなり血縁的には近いか、あるいは親房と関係が深かったのではないかと思います。
 その後、春日中将顕国は、茨城南西部から栃木県にかけて、獅子奮迅のめざましい活躍をしています。顕国は、ただの公家ではなく、武士のように、戦陣の中に身を投じていたと思われます。顕国が魅力ある人物か、リーダーシップがある人物だったのではないでしょうか。

 所在:茨城県守谷市けやき台3丁目