平成17年 5月 4日(水) 晴れ

 今日はすごく暑いです。たぶん30度は超えています。
 昨日、羽田から飛行機で岡山空港へ来て、岡山市内に宿泊。
 一昨日の夜に飲み会があり、昨日は二日酔いで調子が悪くて、早めに寝ました。

 今日は、岡山駅前で、レンタカー・ビッツを借ります。
 最初に、三石城跡へ向かいます。
 岡山ICから山陽自動車道にのり、備前ICで下りました。

 今日は、備前・備中の城攻めです。(山城登り)

 三石城跡   備前市三石
 山陽道の宿駅として発達した三石は、東に播磨との国境である船坂峠があり、古代には太宰府へ通じる要路でした。南北朝時代に児島高徳が後醍醐天皇奪還をもくろんで待ち受けていた場所とされます。この三石の背後に三石城跡(県史跡)があります。
 三石城は三石保の伊東大和二郎が、自らの居城の背後にある三石山(城山、標高291m)に城を築き、1333(元弘3)年六波羅救援にむかう西国の兵を阻みました。その後も全国規模の合戦のたびに関わりをもち、1336、(建武3)年には九州へ敗走する足利尊氏が、備前の武士団をおいて新田義貞の追撃軍に備えています。

 三石の集落から、三石山方面に入ります。入口は、ガソリンスタンドが目印でした。



 途中から林道に入ります。だんだん上へ登ってゆき、途中で左の三石城登山口方面へ曲がります。
 林道が行き止まりになり、三石城跡登山口でした。空き地があり、車を停めます。


 案内看板の左側の道に歩いて、入ってゆきます。最初は下ってから、登りになります。
 道を途中で、間違ってしまいました。10分ぐらい歩いて、道が無くなり、行き止まりになりました。
 引き返して、元来た道に戻り、道なりに歩きます。
 なんて事はなく、真っ直ぐ歩いてゆけばよかっただでした。
 大汗をかいてしきました。今日は暑いです。
 やっと、三石城跡の本丸跡に着きました。
 車を停めた駐車場から、普通に歩けば30分前後で、本丸跡に来ることができたはずでした。
 雑木がまばらに生えていて、下草は、それほど高くないです。




 本丸跡からの、播州方面遠望


大手門跡
 石を積んだ、石垣がありました。
 もと来た道を引き返し、車に戻ります。


車を走らせ、船坂峠を捜します。比較的近い距離にありました。

 船坂峠
 古典太平記によると、鎌倉時代末期、隠岐へ配流となる後醍醐天皇一行を、児島高徳を筆頭とする一族が、この船坂山で待ち構えていました。しかし、後醍醐天皇一行はこの道を通過することはせずに、出雲へ向かっていきました。





 福生寺    岡山県備前市大内

 大滝山福生寺に到着します。

 寺の開基は鑑真であるといわれます。後年、真言宗に属し、寺観壮麗を極めましたが、万寿元(1024)年火災により一山ほとんど焼失し、その後観応年間(1350)に足利尊氏の発願により再興され、僧院33坊を数えたといいます。
 中世に至って康正年間(1455〜57)、赤松・山名両氏の争いから全山が焼失しました。
 三重塔(国重文)は1441(嘉吉元)年足利義教が建立したものです。近世になって天台宗となり、備前四十八ヵ寺の一つに加えられ、寺運は隆盛しました。

仁王門(備前市指定文化財)
 応永4(1398)年、足利義満の建立とされています。


本堂
 現在の本堂は天和年間(1681〜84)、池田綱政によって建てられたものです。


三重塔
 福生寺の三重塔は、本堂から少し離れています。
 道を先に行くと、右手に竹林があり、竹林の中の坂道を登ってゆきます。


 坂を登り切ると、三重塔が見えてきました。
 この三重塔は、重要文化財で、1441(嘉吉元)年室町幕府6代将軍、足利義教が願主となって、建立されたものです。





 熊山遺跡に車で向かいます。
 熊山に入り,舗装された林道を登ってゆくと,頂上付近に広い駐車場があります。
 車を停めて、山道を登ってゆきます。

 途中に熊山神社がありました。祭神は大国主命。

 熊山神社
  岡山県赤磐郡熊山町





 熊山神社には、児島三郎高徳 挙兵の跡という岩があります。
 古典太平記によると、建武3(1336)年4月、熊山に兵を挙げた時の腰掛岩と旗立岩であるといわれています。



 熊山遺跡
   赤磐郡熊山町奧吉原

 備前最高峰の熊山(標高500m)は、全山がうっそうとした樹々で囲まれ、頂上付近からは備前の平野、瀬戸内海などが展望できます。
 奈良時代に来朝僧鑑真が建立した霊山寺があったという伝承が残っています。「太平記」によると、1336(建武3)年、南朝の児島高徳がこの山で兵を挙げ、「本堂」の周りで戦闘が繰り広げられたと記しています。

熊山遺跡(国史跡)

 熊山には、熊山遺跡があります。巨大な岩盤上に1辺約11.7mの方形基壇をつくり、その上に1段・2段・3段すべてが石からなる壇です。
 遺跡については、年代は奈良時代・平安時代・鎌倉時代説、目的は仏塔・戒壇・墳墓説がありますがはっきりしていません。


帝釈山 霊山寺跡





 余慶寺

 余慶寺は、薬師堂・三重塔・本堂・鐘楼が建っています。
 寺伝によると、749(天平勝宝元)年に報恩大師により開基され、古くは日待山日輪寺と称し、慈覚大師の再興後に本覚寺、その後、上寺山余慶寺とよばれるようになったといいます。
 本堂(国重文)は観音堂ともよばれ、1570(永禄13)年再建という棟札があるが、上寺山北方の鯛山から移築し、大修理が加えられたともいわれ、室町時代の特色をもつ寺院建築となっています。


 三重塔は、西幸西村、草井幸右衛門の私財ににより、6ヶ年を費やして1815(文化12)に完成したものです。


 境内の一角には、勤王の志の厚かった児島高徳の供養塔が建立されています。高徳は、豊原庄の地頭クラスの武士であったといわれ、当地で7歳から22歳まで過ごし、後醍醐天皇の隠岐遷幸の途中、船坂山で待ち受け院庄まであとを慕っていったという話は有名です。

児島高徳の供養塔



 備中国分寺 総社市上林1046

 福山城跡に向かう途中で、備中国分寺の五重塔が見えてきます。レンゲ畑の向こうに五重塔が見えています。なかなか、いい雰囲気です。
 このあたりが吉備路風土記の丘県立自然公園の中心です。
 現在の日照山国分寺(真言宗)は、1717(享保2)年頃から、再建されたものです。
 五重塔(国重文)は岡山県内唯一のもので、1821(文政4)年の建築です。
 時間の余裕が無かったので、備中国分寺は拝観しませんでした。




 福山城跡  都窪郡山手村福山


 和霊神社脇の駐車場に車を停めて、山道を歩いてゆきます。
 福山(標高300m)山頂に立つと眺望はすばらしいです。山頂は福山城跡(国史跡)となっており、現在も城門跡・土塁・井戸などの遺構が残っています。
 この一帯で1336(延元元)年5月、九州から上洛して政権を掌握しうとする足利氏の軍勢と、それを阻止しようとする後醍醐天皇の軍勢が衝突しました。福山合戦です。
 足利軍は足利直義、後醍醐天皇軍は越後の豪族大江田氏経(大井田氏経ともいう)が大将でした。氏経は福山城を築き、足利軍を迎え撃ちましたが敗れました。その敗因は、足利直義軍との兵加の差だけではなく、備中の豪族である荘・真壁・陶山・新見・多治部氏らが足利氏に味方したためと考えられます。楠木正成が戦死した湊川の戦いは、福山合戦の約1週間後のことです。福山合戦を伝える碑が山頂に立っています。







 本日の予定は終了で、岡山市内にレンタカーで戻りました。