平成17年5月5日 晴れ

 昨日から、兵庫県明石市に移動して宿泊しています。
 西明石駅前のトヨタレンタカーで車を借りました。
 今日借りたレンタカーは、トヨタ・パッソです。
 初めて、パッソに乗ります。オートマのレバーが床に付いているのではなく、ハンドルの左側に付いています。その分、室内が広く感じます。
 兵庫県の中央の山間部、昔の地域名でいう丹波に向かいます。

 竹田城跡    兵庫県朝来郡和田山町竹田

 標高353mの城山の頂上に、竹田城(虎臥城)跡(国史跡)があります。
 この城は、1443(嘉吉3)年、但馬国守護山名宗全が、播磨の赤松氏、丹波の細川氏に備え、13年の歳月をかけて築かせたものといわれています。東西約100m・南北約500mの山城で、そのたたずまいは、まさに山頂に臥した虎そのもので、虎臥城という別名があります。
 山頂まで道が通じていますが、台風の被害に遭い、まだ復旧しておらず、車で城跡まで行けませんでした。





 大同寺  
  兵庫県朝来郡山東町早田417
 大同寺(臨済宗)は、807(大同2)年の創建と伝えられます。1372(応安5)年、月菴禅師が再興し、1400(応永7)年、山名時煕は寺規を定め、大同寺を山名氏の菩提所としました。月菴禅師の開山による寺は、大同寺のほかに生野の大明寺、竹野須谷の円通寺があります。
 寺の開山堂(県文化)は、禅宗様式を基調につくられています。堂々とした建物です。




 大明寺
  兵庫県朝来郡生野町黒川463
 市川の支流黒川の上流に黒川ダムがあり、ダムの下方に大明寺(臨済宗)があります。寺伝によると、1367(貞治6)年、美濃の人月菴宗光の創建といいます。寺名の由来は、彼が中国の大明寺で修行したとき、釈迦が説法した祇園精舎の土を手に入れ、それをまいて結界したことによります。
 但馬国守護山名時義とその子時煕は月菴に師事し、時煕の尽力により天皇から禅師号(正続大祖禅師)が諡られました。その後、伽藍は天文年中(1532〜55)に火災にあい、祖堂一つを残すのみとなり、後年沢庵和尚によって修築されました。
 寺には山名時煕の墓や木像などゆかりの品が多く保存されています。



 ダムが近くにあるだけに、寺はすごい山の奧にあります。
 茅葺き屋根の開山堂が、寺の歴史の古さを偲ばせます。










 高原寺
  兵庫県氷上郡青垣町檜倉514

 瑞巌山高源寺(臨済宗)は、紅藁の名所であり、紅葉の季節には、全山が燃えるといわれるほど美しい景観がひろがるといいます。
 高源寺の開祖遠谿祖雄(えんけいそゆう)は、1304(嘉元2)年、19歳で出家、1306(徳治元)年、中国(元)に渡り、杭州天目山幻住庵の中峰明本(普応国師)に師事し、修行に励み、その忠実な嗣法の弟子となりました。1316(正和5)年、筑前冷泉津に帰着しました。1325(正中2)年、佐治郷小倉の岩屋の地に堂宇を建て、中峰の宗風をひろめました。
 1326(嘉暦元)年後醍醐天皇から高源寺の寺号が授けられました。後柏原天皇は勅願所として礼遇し、末代紫衣の宣旨を下付しており、寺運の興隆はきわめて著しいものとなりました。
 天正年間(1573〜92)、織田信長の丹波攻略の兵火にかかり、堂宇はことごとく焼失しました。その後は法燈を維持するのみでした。1784(天明4)年入寺した29世弘厳玄猊は、堂宇建立に着工し、当時の柏原藩主織田信憑(のぶより)の援助と近郷の住人の協力を得て、1799(寛政11)年、工事は完了し、寺観は一新しました。
 建造物には総門・山門・仏殿・方丈・庫裏・鐘堂・宝蔵・多宝塔があります。


 高源寺は東天目と称される甲斐(山梨県)の栖雲寺に対して、西天目と呼ばれ、紅葉は中国唐代の原種を輸入したもので、天目カエデとも呼ばれています。初夏の緑もいいです。

方丈




 三重塔は、1790年頃の建立で、本尊は、開運毘沙門天です。建築様式が変わっています。


 円通寺
 氷上郡氷上町南御油983
 氷谷山圓通寺(曹洞宗)は、1382(永徳2)年、後円融天皇の勅命により建立された寺院です。開山英仲法俊は、足利尊氏の末子と伝えられ、幼少にして天龍寺の夢窓疎石に参禅し、修業に励みますが、夢窓の死後、越前に慈眼寺を開き、摂津永沢寺の住職となった天真自性について出家得度し、その法を継ぎました。
 英仲は圓通寺創建に際し足利義満の帰依を受け、おおいに伽藍を整えました。本尊如意輪観音像は、南北朝合一を祈願して刻まれたもので、後小松天皇より下賜されたものと伝えられます。
 本堂・庫裡などの伽藍が堂々として大きいです。江戸時代の建築です。








 達身寺
 氷上郡氷上購住259
十九山達身寺(曹洞宗)は、もとは清住の北にそびえる十九山の一つの峰、達身山にあったといいます。達身寺は謎の寺です。昔の古文書が全く残っていません。残っているのは仏像だけです。
 1695(元禄8)年、悪疫が蔓延し、この地域に多くの死者が出ました。これをきっかけに村人たちは垂水堂を麓に移し、修理の手を加えて山中に散乱する諸像を集め、堂内に安置しました。
 次いで1712(正徳2)年、達身堂は曹洞宗に改宗され、十九山達身寺として開山し、圓通寺の末寺となりました。



 達身寺の宝物殿を拝観しました。
 本尊阿弥陀如来坐像をはじめ、12体が国の重要文化財に、34体が県の文化財に指定されています。
 丹波の山中にある寺に(この地域に住んでいる方には失礼だが、はっきり言って田舎です。)、12体の重要文化財の仏像があるとは驚きました。不思議なことです。
 達身寺の仏像の大部分は、10世紀から12世紀にかけての時代につくられたもので、そのなかでも兜跋毘沙門天の数が多いです。
 兜跋とは、西域兜跋国にあらわれた大王の姿を模したものと伝えられ、兜跋毘沙門天は王城守護の神であり、外敵退散の力を備えると信じられ、平安初期からその造像例があります。




 石龕寺
  兵庫県氷上郡山南町岩屋2

 「石龕寺略縁起」よれば、587(用明2)年、聖徳太子が自刻の毘沙門天像を安置したのが寺の始まりであり、村上天皇が数多くの伽藍坊舎を建立したと伝えます。
 山門の建立時期は明らかではないが、なかに安置されている金剛力士(仁王)像(国重文)には、仁治3(1242)年の銘が体内に残っています。
 この像は桜材の寄木造で玉眼がはめ込まれ、彩色が施されています。像高は阿形368.1cm、吽形371.2cmの巨像で、力強く忿怒の相をよくあらわし、威圧感を与えます。作者は肥後法橋定慶です。


 1351(観応2)年、足利尊氏の子義詮がこの地に身を寄せたことが「太平記」にみえ、地元武士の石龕寺に対する崇敬の念も厚かったとのこと。
 その後1579(天正7)年兵火にあい、山門のみを残して全山焼失しました。1626(寛永3)年、明覚法印が開山となって復興し、一時荒廃の時期もありましたが、歴代住職の多大の尽力によって現在の景観をみるに至りました。

 この寺も紅葉がきれいそうです。









 萬松山 慧日寺(臨済宗)
  兵庫県氷上郡山南町太田127
 慧日寺の山門を入ると、正面には仏殿(禅宗様)があり、右手には鐘楼、奧には本堂、その右には庫裏が配置されています。
 慧日寺は、1375(永和元)年、管領細川頼之・頼元によって建立され、開山は特峰妙奇で、福知山天寧寺の開祖愚中周及の友人にあたります。
 創建当時は一本山として、末寺46ヵ寺、塔頭16坊が存在したと伝えられ、丹波の名刹としての地位を確保し続けましたが、1575(天正3)年、明智光秀の兵火にあい焼失しました。その後妙心寺の別心禅師により、寛永年間(1624〜44)・慶安年間(1648〜52)に、堂宇再建の事業が進められました。
 次いで1667(寛文7)年にも火災に遭い、翌年妙心寺の生鉄禅師がこの地を訪れ、再建に全力を注ぎました。現在の仏殿・方丈・鐘楼などは、元禄年間(1688〜1704)以降、一説には1718(享保3)年に再建されたものといいます。

仏殿



本堂




 磯宮八幡宮
 多紀郡篠山町日置167
 城東日置バス停の南に、応神天皇を祭神とする磯宮八幡神社があります。社伝によれば、933(承平3)年に京都の石清水八幡神社から勧請し,五十神を末社としたことにより五十宮と称したといいます。またこの年に寛空大僧正が磯宮寺(真言宗)を開きました。1579(天正7)年,明智光秀の丹波攻略の兵火で焼失しました。


 境内南には3本のカヤの木があり,そのうちの一本は目通り約4m,高さ約20mの古木で,裸カヤ(国天然)と呼ばれています。
 1335(建武2)年,足利尊氏が丹波に下向して当社に参拝した際,社僧勝心が差し出したカヤの実の皮をむいて植えたものが芽ぶいたものといいます。今もこのカヤの実は堅い殻がなく,渋皮だけの実をつけるといいます。




 これで観光を終了し、明石市に帰りました。