平成17年5月7日 晴れ

 今日は、播磨を廻ります。
 借りたレンタカーは、トヨタの青いパッソです。



 清水寺
  兵庫県加東郡社町平木1194
 清水寺(天台宗)は、西国三十三所観音霊場の第25番札所として有名で、多くの参詣者を集めています。清水寺は、寺伝によると法道仙人開基の寺で、水の乏しいこの地で、法道仙人が祈願したところ霊泉が湧ぎ出たことが寺名の由来とされています。
 「縁起」によると、現在失われている大塔は、1157(保元2)年、平清盛の生母と伝える祇園女御の建立、常行三昧堂は後白河法皇、清盛の養母池禅尼が薬師堂、頼朝が阿弥陀堂を建立したといいます。
 鎌倉期にも後深草法皇の帰依をうけ、播磨国吉田庄が寄進され、将軍宮久明親王、花園天皇、後伏見上皇の奉加寄進をうけて堂舎の造営修理を行いました。その後明治末と1913(大正2)年の全山焼亡によって多くの伽藍は焼失し、現在のものは大正から昭和にかけての再建です。




 この地は、播磨・摂津・丹波の国境ということで、しばしば合戦の舞台となりました。
 1383(永徳3)年、赤松円心の4男で終生南朝方として活躍した赤松氏範父子5人と郎等137人が、赤松義則・光則らに攻められ、当寺で自殺しました。駐車場の東には、その切腹石と伝えられるものがあります。

赤松氏範の切腹石


この道の向こう側に赤松氏範の墓が造られています。


赤松氏範の墓



 瑞光寺
  兵庫県多可郡中町門前313
 瑞光寺(臨済宗)は、播磨における最も古い禅宗寺院の一つです。正和年中(1312〜17)頃に開創されたとしているが、寺伝によれば、赤松則祐が母の菩提を弔うために夢窓疎石を招いて、1331(元弘14)年に創建したといいます。
 1575(天正3)年7月、赤松氏の高城山が別所氏の夜襲をうけ落城した際、伽藍も全焼し荒廃しましたが、1683(天和3)年10月、本山天龍寺から夢窓疎石10世の法孫文礼周郁(ぶんれいしゅうゆく)が招かれ、往古の地より東に位置した現在地に、伽藍を整備しました。









 応聖寺
  兵庫県神崎郡福崎町田口236
 「沙羅の木の寺」と呼ばれる応聖寺(天台宗)があります。赤松則祐の建立と伝えます。





本堂の裏側と傾斜地の間に池と庭園がありました。



 臨済寺
  兵庫県飾磨郡夢前町新庄1468
 百丈山臨済寺(臨済宗)は,1379(康暦元)年、赤松義則が別峯国師を開山として創建した寺で、禅宗臨済宗が当地方に入った最初とみられます。国師は1402(応永9)年この寺で遷化し、本堂裏の歴代墓地に墓塔があります。すぐそばに、赤松義則の墓と呼ぶ、同時期の宝篋印塔もあります。
 臨済寺本堂は1675(延宝3)年、姫路藩主松平直矩が再建したものです。






 弥勒寺
  兵庫県飾磨郡夢前町寺町1051
 書写山円教寺を開いた性空上人は、書写山の北約5kmの地に隠居所をつくり、そこで1007(寛弘4)年98歳で亡くなるまでの晩年を過ごしました。信仰心の厚かった花山上皇は、書写山だけでなく、この地まで上人を訪ね、播磨国司の巨智延昌に命じ諸堂を建立させ寺を整えさせました。これが弥勒寺の始まりで、もとは坪の垣内堂ガ谷(かいちどうがや)にありましたが、焼失後、現在地に移りました。
 現在の本堂(国重文)は、播磨・備前の守護職であった赤松義則が、1380(康暦2)年に再建したものです。





 円通寺
  姫路市豊富町

 古典太平記に記されている話で,高師直の難を避け,出雲に逃れようとした塩谷高貞の夫人の守り本尊を祀っているのが円通寺(曹洞宗)です。




 焚堂跡
 高師直の難を避け,出雲に逃れようとした塩谷高貞の夫人が,この地で自害したというところが焼堂跡です。
  古典太平記によると,暦応4(1341)年,塩谷高貞の妻早田夫人(顔世御前)が足利尊氏の執事高師直の横恋慕により逆心ありと讒言され,出雲に逃れる途中,蔭山の宿で追手に攻められ,主従は草堂に火を放ち悲壮な最期を遂げたと記されています。
 焚堂はその跡で、石囲いは焼失した草堂と主従の灰塚,碑は文政2(1819)村田継の撰により,圓通寺釈仙龍・安水政常などによって建立されています。
 圓通寺縁起は、菩提を祀るため焼け跡から出た持仏十一面観音を本尊とし,水月院圓通妙応大姉にちなんで圓通寺と号したとされています。


 現在は,民家の民有地になっており,庭に石碑が建っています。


 明石市に戻りました。