前日,甲府市内へ宿泊しました。今日は,二日目の観光です。
 甲府城跡

 この地は,一条小山と呼ばれた丘陵だった所で,甲斐源氏の一条二郎忠頼が居館を構えた所です。その後一蓮寺となり,門前町も発達しました。
 関ヶ原の戦い後,甲斐国は徳川氏の直轄領となり,江戸初期には徳川氏の一門が断続的に城主となり,徳川義直,徳川忠長の後,1661(寛文元)年以後徳川綱重・綱豊の父子が2代続いて,甲府家と呼ばれました。
 1704(宝永元)年綱豊(後の家宣)が将軍綱吉の世子に決まると,柳沢吉保が城主となりましたた。先祖の地であったが,柳沢吉保は当時幕閣に重きをなしていたので入城することはありませんでした。しかし,甲府城修築には力を入れ,建物を増築して大名の本拠にふさわしい姿に改め,城下町を整備して多数の家臣を住まわせました。吉保が隠居すると,その子吉里が甲斐守となり,甲州最後の大名として藩政にあたりました。1724(享保12),吉里は大和郡山へ転封(領地替え)を命ぜられました。このとき城の一部が取り壊され,さらに1727(享保12)年の火災でほとんどを焼失しました。
 柳沢氏の後は甲斐一国が天領となり,甲府勤番と三部代官の支配下におかれました。







 武田神社
 甲府市古府中町2611
 武田神社一帯が,武田氏館跡(国史跡)です。躑躅ヶ崎とも呼ばれています。
 1519(永正16)年,武田信虎が居館を石和から,この地に移して領国経営の中心としました。以後,武田信玄の治世33年間を経て,1581(天正9)年に武田勝頼が新府城(韮崎市)に移るまでの間,武田氏の住居と政庁をかねた本拠でした。
 館の主要部の規模は東西約284m,南北193m,周囲には高さ約3mの土塁を巡らし,その外側は深い堀で囲まれていました。
 1919(大正8)年,この館跡に武田信玄の偉業をしのんで武田神社が造営されました。




 今回,始めて,神社の周囲を回りましたが,深い堀と土塁に囲まれています。











 積翠寺  (臨済宗)
 甲府市上積翠寺町984

 積翠寺は,要害山の南麓に位置しています。自伝によると行基を開山とし,夢窓疎石の弟子竺峰(じくほう)を中興開山としています。
 この寺の近くに,積翠寺温泉があります。

 自伝では,1521(大永元)年,この寺で後の武田信玄(晴信)が生まれたといい,産湯の井が境内に残っています。


 積翠寺の庭園は,夢窓疎石の築庭といいます。







 武田信玄火葬塚
 1573(天正元)年4月12日武田信玄は,信州駒場で病死しましたが,敵に知れないように遺体をここに仮埋葬し,3年間喪を秘した後1576(天正4)年に火葬しました。武田勝頼は,遺骨を菩提寺の恵林寺(塩山市)に運び,同年4月16日盛大に本葬を執り行いました。






 川尻塚
 織田信長の武将河尻秀隆は,1582(天正10)年に武田氏を滅ぼした主力で,その功によって甲斐の大部分と信州諏訪郡を拝領しましたが,過酷な占領政策を行ったため恨みを買います。まもなく本能寺の変の報が甲斐に伝わると,立ち上がった土豪や民衆の襲撃をうけて殺され,遺体はこの地に掘った穴へ逆さづりに埋められたといいます。




 円光院 (臨済宗)
 甲府市岩窪町500
 甲府五山の一つで,信玄の正室三条夫人の墓があります。信玄の死より3年前の1570(元亀元)年,夫人が没するとこの寺に葬られました。三条は,左大臣三条公頼の娘で,京より迎えられました。
 夫人は,男子では長子義信(よしのぶ),さらに竜宝(信親・のぶちか)らを出産しました。
 女子では,相模北条氏の正室となった黄梅院,武田一族の穴山信君の正室となった見性院を出産しました。





 大泉寺(曹洞宗)
 甲府市古府中町5015
 大泉寺は,もと真言宗の大川寺でしたが,大永年間(1521〜1528),武田信虎が曹洞宗の寺とし,同時に寺号も大泉寺に改称,信虎の祈願所および菩提寺としました。信虎の墓・宝篋印塔(県史跡)があります。
 武田信虎は,子の晴信(信玄)により国外追放になり,以後帰国しませんでした。1574(天正2)年旅先の信州高遠で没し,孫の勝頼によって大泉寺に葬られました。



 墓所には,入れる雰囲気ではありません。ひもで,門の扉が縛ってありました。


 善光寺(浄土宗)
 甲府市善光寺3-36-1
 開基は武田信玄です。信玄は信濃へ進撃し,越後の上杉謙信と前後5回川中島で対戦しました。1558(永禄元)年,信玄は長野善光寺が戦火さらされることを恐れ,本尊以下諸仏や寺宝類をこの地に移し,自ら開基となり甲府に善光寺を建立しました。1565年落慶法要が行われたといいます。
 武田氏滅亡後も織田信長,豊臣秀吉により保護され,徳川氏もこの善光寺をあつく保護しました。
 創建時の本尊は,武田氏滅亡後転々とした後,長野善光寺に帰っています。



 現在の本堂(重文)は1796(寛政8)完成の再建です。完成まで約30年間を要し,東日本最大の木造建築です。




 酒折宮  甲府市酒折3-1-13


 祭神は,日本武尊です。「古事記」や「日本書紀」の日本武尊説話で有名な所です。
 日本武尊が蝦夷征伐を終えて都へ帰る途中ここに宿営したと伝えられています。そのとき尊は,「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で家来たちに」問いかけました。常陸国新治郡の筑波からここ甲斐国にくるまで,幾晩寝ただろうかという意味ですが,尊のこの問いに対して家来達の中には歌で答えられる者はいませんでした。
 すると身分の卑しい焚火番の年老いた男が進み出て「かがなべて夜には九夜(ここのよ),日には十日を」とみごとにつけ加えました。数えてみますと9泊10日かかりましたと意味です。尊はこの老人の才能をたいそうほめ,東国造(あずまのくにのみやっこ)に任命したと「古事記」では伝えています。後世,この伝説が,二人で一首の和歌を詠む連歌の起源だと考えられ,連歌発祥の地として酒折宮を訪れる文化人が多かったとのこと。





 玉緒神社  甲府市国玉町
 祭神は大国魂命(おおくにたまのみこと)。国玉神社とも呼ばれ,甲斐三宮です。
 日本武尊は東征の帰途,酒折宮に宿営しました。その折りにこの国玉の地にも来て,ここが後の山梨・八代・巨摩3郡の中央にあたる要衝の地であることを認めました。そこで尊は甲斐国が再び乱れないように,平和を願ってここに神を祀り,社地に玉を埋め,その上に杉を植えて,玉室杉と称したのがこの神社の名の起こりだといいます。






 遠光寺
 加賀美遠光は、1143(康治2)年源清光の子として生まれました。武田氏の始祖太郎信義の弟に当たります。南アルプス市加賀美に居館し、櫛形町・甲西町・増穂町・甲府市南部、それに塩山市の一部を治め、強大な勢力を誇りました。
 源平の戦いには、甲斐源氏の諸族とともに参加し戦功がありました。富士川の合戦・一谷・屋島・壇ノ浦に連戦し、その功により信濃守兼北陸道探題となります。また、1189(文治5)年の奥州平定にも大将として参画し功をたてています。
 次男の小笠原長清ほか、南部三郎光行、於曽五郎経行は栄えました。小笠原長清は信濃守となり、子孫が継承しており、陸奥国盛岡の領主となった南部氏とともに、近世まで大名として続きました。遠光の墓は、彼の開基である甲府市の遠光寺にあります。


 加賀美遠光の墓




 菅田天神社
 塩山市上於曽1054

 842(承和9)年に建てられたと伝えられ,その後,1004(寛弘元)年に,菅原道真を相殿に祀るようになったことから,菅田天神といわれるようになりましたた。以来,甲斐源氏の守護神として崇められてきました。
 本殿には素戔嗚尊と5男3女の神を祀ります。当社には武田家代々の家督相続のしるしの一つとされた小桜葦威鎧(こざくらがわおどしよろい)・国宝が保存されています。
 鎧は,矢や刀を防ぐにはこれだけで充分であり,盾はいらないという意味から,盾無鎧(たてなしのよろい)とも呼ばれています。この鎧は,甲斐源氏の祖,新羅三郎義光から武田氏に相伝され,信玄の代に甲府の鬼門にあたる当社に守護神として納め,於曽氏に守らせ,戦場に臨む際は陣中において軍神として崇拝したといわれます。
 1582(天正10)年,武田家滅亡の時、勝頼の子で跡継ぎの信勝がまだ元服・鎧着の式をあげていなかったため、陣中で急いでこの鎧を着けて式をすませたといわれます。





 小桜葦威鎧は,収蔵庫に入って鍵がかけられており,見学はできませんでした。

 恵林寺
 臨済宗 恵林寺は、武田氏の菩提寺、信玄の牌所である。1330(元徳2)年、領主二階堂道蘊が夢窓国師に帰依し、自宅を禅院に改めて国師を開山として創建したのに始まるといわれます。甲斐の臨済禅(妙心寺派)の中心として全盛を極めました。







 恵林寺庭園(国名勝)は、1330(元徳2)年、夢窓国師が作庭したと伝えられます。面積2,200平方m、上段は枯山水、下段は心字形の池に築山を配した池泉回遊式庭園であり、背後の乾徳山を借景としています。