今日は,昔の但馬国・現在の兵庫県北部を巡る旅です。

 電車で京都から山陰線で福知山へ向かいます。途中から単線になります。
 福知山で下車,レンタカーを借りて,兵庫県北部(昔ならば但馬国)へ向かいます。

 山名陣屋跡と壺渓御陵
  美方郡村岡町村岡723
 
 壺谷御陵には,藩主山名氏の3代矩豊から8代義方までの墓碑が並んでいます。


 山名陣屋跡(御殿山公園)

 山の中腹に図書館・体育館が桜の古木に囲まれて見えます。
 この地が御殿山,すなわち村岡藩主山名氏の陣屋跡です。
 山名氏は,但馬の山名氏を本流としていましたが,織田信長軍の2度にわたるる但馬出兵をうけて滅亡しました。
 関ヶ原の戦いで、徳川方につい因幡の山名氏の禅高(豊国)が,現在の美方郡東部に6700石を拝領,1604(慶長9)年,村岡町福岡に陣屋を構え村岡藩が誕生しました。
 その後,3代矩豊が御殿山に陣屋を移し,このとき黒野村を村岡と改め,武家町と在郷町の町割をしました。山名氏は小藩にもかかわらず「交代寄合衆」大名格に進み,5代豊就(とよなり)は寺社奉行として幕閣入りをするなど,1869(明治2)年の版籍奉還まで続きました。


 楞厳寺(りょうごんじ)
  美方郡浜坂町田井411

 浜坂の町を通り,清富・指杭を過ぎると,田井の集落のなかに楞厳寺(臨済宗)の山門が見えます。この寺は臨済宗天竜寺派で,夢窓国師の法嗣南溟(なんめい)禅師が,1360(延文5)年に建立しました。
 同寺所蔵の古文書によると,楞厳寺は1382(永徳2)年に「因幡国服部庄領家職」を寺領としました。これは楊梅親行(藤原道綱系)から,南溟との公家同士の関係によって寄進されたものであるとされます。しかし,南北朝の動乱期にこの寺領が押領され,有名無実化してきます。公家側の周旋かあったのか,1398(応永5)年,将軍足利義満が寺領安堵の御教書を発し,その意を得た管領畠山基国の施行状が,因幡守護山名冬氏へ伝えられ,守護から国もとの守護代土屋次郎へ寺領を安堵するよう遵行(じゅんぎょう)状を下しています。

 こうしたとき,但馬守護山名時煕の楞厳寺宛書状には「寺家無力之由承及候之間」「当寺事,可為身之斗之由承候之間」と記され,楞厳寺を保護する立場をとるようになりました。以後,同寺には3代将軍義満から8代将軍義政までの足利将軍家の御教書が発給され,歴代の但馬守護山名氏の安堵状が発行されるようになりました。楞厳寺は末寺三十余寺を保有し隆盛をきわめましたが,将軍・守護大名山名氏が没落するに及び,外護者を失い衰退していきます。
 寺の本尊は釈迦牟尼仏ですが,絹本著色南溟禅師像・夢窓国師像・仏国国師像・山名時煕像各1幅,楞厳寺文書,夢窓国師書状,仏説観無量寿経八巻など,多くの宝物が県文化財となっています。


 余部鉄橋

 鉄橋は高いのは高いが,思っていたほど高くないです。





 大乗寺と円山応挙
 城崎郡香住町森860

 大乗寺(真言宗)の山門の下がバス停です。樹齢800年のクスの巨木を見ながら,こけむした石段を上ると山門に至ります。
 広い寺域に客殿・本堂・薬師堂・鐘楼・楼門などを備えています。本尊は観音堂の木造観音立像(国重文)で,同堂には木造聖観音立像(国重文)もあり,通称「お前立ち観音」と呼ばれています。なお,客殿内の仏殿に安置されている木造十一面観音立像(国重文)とともにいずれも平安期の作です。


 この寺は,江戸時代の絵師円山応挙(1733〜95)と深いかかわりがあり,別名「応挙寺」といわれています。応挙は丹波に生まれ,京都で苦学をしていた頃,大乗寺の僧密英に画才を認められ,銀3貫目の出資をうけました。その後,江戸で修業を積み,円山派として写生画を大成させました。
 大乗寺の客殿が完成するとき,昔の恩返しにと,応挙は息子の応瑞,弟子の呉春(四条派開祖)らを連れて寺を訪れました。寺の襖などに,山水図・郭子儀図・孔雀図と,応挙自らが筆をふるい,そのほか,呉春の群山露頂図・耕作図など165点(国重文)を描き残しています。寺全体が円山派・四条派の美術館と称しても過言ではありません。



 拝観料は500円でした。
 ふすまの絵が,光の陰影により,見え方がかなり違います。

郭子儀図は,200年以上経っても色が鮮やかです。
緑の絵の具が特に鮮やかです。


 孔雀の間で,ちょうどNHKが撮影していました。今度,BSハイビジョンで放映するといいます。
 この絵が完成してから,応挙は3ヶ月後に死去しました。

寺全体が,円山派の美術館です。

大乗寺 円山派デジタルミュージアム


 円通寺
 城崎郡竹野町須谷940

 円通寺(臨済宗)は,寺伝によると,1389(康応元)年,月菴宗光(げったんそうこう)を開山に・山名時義の創建です。時義は,山名氏の全盛期を築いた時氏の5男で,出石に城を構え,本拠地としました。時義の代に本堂が,その子時煕の代に七堂伽藍が整えられました。以後,山名氏歴代の保護をうけ,秀吉の但馬出兵の頃まで栄えました。



 総持寺  出石町

 総持寺は,天平年間の創建という古刹です。
 本尊の十一面千手観音立像は1535年(天文4)年,但馬国主 山名祐豊が寄進したもので,兵庫県の指定文化財となっています。