長篠城跡
 武田勝頼が天正3年(1575)5月、1万5千の軍を引きつれ三河に攻めこみ、長篠城を囲み攻撃を開始しました。長篠城は、当時21才の奥平信昌を城将とし5百の兵で守っていました。長篠城は三方を断崖に囲まれた難攻不落の城とはいえ,武田軍の猛烈な攻撃によって落城は目前にせまっていました。
 徳川家康は織田信長に援軍を要請し,出動を決意した信長は,万全の準備をととのえ,5月13日岐阜を出発しました。ここに史上有名な長篠の戦いが始まりました。

 少し,雨降り模様です。





寒いです。城跡の見学もそこそこにしました。
博物館を見学。

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 長篠古戦場
 天正3年(1575)5月18日、織田・徳川連合軍3万8千は、設楽原の連吾(れんご)川にそって陣地を築き始めました。
 20日、武田軍は、長篠城の押えに3千の兵を残し、他はことごとく寒狭(かんさ)川を渡って連合軍の堅陣に向って進撃しました。
 21日(太陽暦7月9日)の明け方、鳶(とび)ヶ巣山の戦闘を合図に設楽原では,両軍主力の大激突が始まりました。
 武田軍は,連合軍3千挺の鉄砲と、三重の馬防柵にはばまれて敗退しました。この戦いで、武田軍の戦死者は1万余人、連合軍の死傷者も6千人を下らなかったといいます。
 信長は,大量の鉄砲を巧みに使って,勝敗を一日で決し従来の戦術を一変させました。この戦い以後,武田氏の勢力は急速に衰え,織田氏の覇権は絶対的なものになりました。

博物館で,長篠の戦いの陣地が落としてある地図を購入してありました。
それを基に,長篠の戦いの戦場跡を見学します。
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織田信長陣地跡

織田信雄陣地跡

岡崎信康本陣地

茶臼山 長篠の戦時の信長の本陣

茶臼山の信長本陣地跡

本陣地跡に信長の歌碑がある。

羽柴秀吉本陣地跡がある丘陵

羽柴秀吉本陣地跡

徳川家康本陣跡

徳川家康物見塚

徳川家康物見塚の長篠設楽原決戦場碑

物見塚にある宝篋印塔

徳川家康物見塚から見た長篠古戦場

長篠古戦場

竹広激戦地

武田軍軍馬供養塔

柳田前激戦地

甘利郷左右衛門信康の墓

信玄塚(小塚)

信玄塚(大塚)

原隼人佐昌胤の墓

小幡上総介信貞の墓

山縣昌景の墓

大宮前激戦地

丸山
馬防柵(復元)

武田勝頼観戦地
 この長篠・設楽が原の戦いに破れたことをきっかけに,武田家は滅亡の道に突き進んでいきました。名門武田家が滅亡するのはもの悲しいです。
 もう、暗くなってきたので、観光を切り上げ、家へ向かいました。