平成18年9月2日 知多半島

 名古屋から,知多半島道路を一路南下して,師崎へ向かいます。
篠島
 三河湾国定公園にある篠島は、愛知県知多半島の先端、師崎港から海上4kmの距離です。

帝井(みかどい)
 南朝の後醍醐天皇の皇子、義良(のりよし)親王が島に漂着されました。
 その際、親王の飲料水を探し求め、この井戸を発見。さっそく井戸を掘り城山にいる親王にさしあげました。
遠くに見える森がある丘が、篠島城跡です。
篠島城跡
 篠島小学校のグランドの脇から伸びている細い道を登っていくと水神天宮の祠があり、そこをさらに奥へ入ったところにひっそりと篠島聖跡の碑が建っています。

羽豆神社
 羽豆岬は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に建稲種命(たけいなだねのみこと)の尾張水軍として従った但馬連の拠点でした。
 東征の帰途、水軍を統率した建稲種命が駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着しました。それを神体として岬に祀ったのが羽豆神社です。
羽豆城跡
 知多半島の最南端、伊勢湾と三河湾の喉元にあたる羽豆岬には、南北朝時代に南朝方の拠点として築かれた羽豆城跡があります。
 海へ切り立つようにそびえる羽豆岬は、眼下に師崎港を見下ろし、篠島、日間賀島、佐久島など点在する島々や、遠くは西に伊勢志摩、東に渥美半島を一望できます。

野間大坊
 天武天皇の時、役の行者が草創、聖武天皇の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称しました。
 白河天皇の承暦年間に,一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名されたものです。
大御堂
源義朝の墓
1159年,平治の乱に破れた源義朝は,数人の家来と共に美濃から,この野間に落ちのびてきました。家来の鎌田氏の義父である長田忠致を頼ったのです。
 義朝は正月を忠致宅で過ごしますが,平氏からの恩賞に目がくらんだ忠致に浴室で殺されてしまいました。

 野間大坊には義朝の墓があります。
 墓には義朝の最後の最期の言葉「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」にちなみ,多くの木刀が供えられています。
織田信孝の墓
豊臣秀吉VS柴田勝家+織田信孝で、清洲会議後に争いになりました。
柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いで敗北・滅亡、信孝は、この大御堂寺に送られ、自害を命ぜられました。
 信孝が自害する際に詠んだ世辞の句、「昔より主をうつみの野間なれば、報いをまてや羽柴ちくぜん」
この後、名古屋市内に戻りました。