平成18年9月29日 愛媛県

四国 第1日目
 羽田空港から飛行機で、松山空港へ降り立ちました。
 予約してあったレンタカー会社に電話して,迎えにきてもらいます。
 手続をし4日間借りました。
 レンタカーで松山市内を走り,中島へ渡るためフェリー乗り場へ向かいます。
 予約はしてなくても乗船できました。
 車はフェリー乗り場の駐車場に置いて、私だけフェリーに乗りました。
 約30分ほどで,中島の港に着きました。
駅前の中島汽船で,レンタサイクルを借りました。ちょっと,さびています。    
文中の板碑
 文中の板碑は、地上高さ1.6m・幅30cmの凝灰岩です。
 南朝の年号が刻まれていることから考えて、忽名氏が本山城の北方の守護神として建立したものとも考えられています。
貞治年間の板碑
延元元年(1336)、南北朝の時代、忽那一族が二分し、文中の板碑が南朝の年号を記しているのに対し、この真福寺には北朝の年号を使った貞治の板碑が建てられました。
貞治年間の板碑
神浦館跡・忽那義範の記念碑
 「忽那義範公表忠碑」は中島の神浦にあり、南北朝時代における義範の誠忠を讃えた撰文が刻まれています。
 忽那水軍の黄金時代を築いた忽那義範の活動範囲は、東は讃岐方面から、西は伊予灘に至るほどでした。
 碑文中には、懐良(かねよし)親王をかくまい申し上げた忠実が記されています。
泰山城跡
 泰山(たいのやま)城跡は、中島本島の、標高289mの地点にある中世城跡です。大部分が、椿や雑木林で覆われています。
 この泰山城は、文治5(1189)年に忽那兼平が築城し、天正13(1585)年、小早川軍の攻略までの約400年間、忽那水軍の居城でした。
 南北朝時代に入ると、延元元(建武3−1336)年8月に安芸国の武田信春が来襲、その後、興国元(1340)年10月に再度、武田軍が来襲と、合戦が度たび行われました。

泰山城跡は,山のてっぺんにあります。自転車で坂道を登る元気は無いので,自転車を麓に停めて,歩いて登っていきます。結構,きついです。
泰山城跡は,標高289mです。ここは島なので、ほぼ、その高さを登ることになります。

舗装された道を登ってゆきます。 真夏に比べて、気温はそれほど高くなく、湿気も低いのですが、登ると汗をかいてきます。   
アスファルトの道が切れる広場があります。
ここからは,畑の脇の道無き道を歩くしかないようです。かなり急です。   
歩いて,ヘビの抜け殻を2つ程見ました。
私はヘビがきらいなので,いやになり,それ以上登ることを諦めました。
  
頂上付近からの眺めはよいです。  
 またフェリーで松山市へ戻ります。松山市内のホテルに宿泊しました。