平成18年9月30日 愛媛から高知へ

四国第2日目 高知
前日に泊まっていた松山市内のホテルを出発。レンタカーで高知市へ向かいます。
高速道路を走り続けます。
高知県内はトンネルばかりです。空を見ながら走る高速道路の区間が短いです。

まず,高知市内観光地は,竹林寺へ向かいます。

 竹林寺
四国霊場 第31番札所です。   
この竹林寺には、室町時代の禅僧・夢窓国師作といわれる庭園があります。
夢窓国師は、歴代の天皇から尊崇され、また北条氏、足利将軍家からも尊崇されていた高僧です。
北側の庭
あまり期待はしていなかったのですが、この寺の庭園よかったです。驚きました。
客殿の裏側に北庭、西に西庭があります。ちょっと贅沢だと思いました。
西側の庭
池があります。池にはハス生えています。   
  
竹林寺 五重塔
1980(昭和55)年、復古調の本格木造塔として再建されたものです。  
本堂(文殊堂)
本尊に、文殊菩薩を祀っています。寛永22年(1644)、土佐二代藩主山内忠義により造営されました。竹林寺に現存する最古の建造物で、国重要文化財に指定されています。

竹林寺には宝物殿があります。宝物殿にある17の仏像が、すべて重要文化財です。
平安時代、鎌倉時代の仏像が現存しています。これは、すごいです。
地方で、これだけの仏像が残っている例は、あまり無いと思います。
ほかに、足利直義、足利義政、山内一豊の発給の制札が展示されていました。
 吸江寺
吸江寺(臨済宗妙心寺派)は、夢窓国師が文保2年(1318)に北条高時の権勢を逃れて土佐へ隠棲、吸江庵という庵をこの五台山に結んだのが始まりです。
 桂浜
桂浜の海がきれいでした。
晴れているので、歩いていると、汗をかきます。
坂本龍馬像
高知に来たなら、ここに来て、坂本龍馬像を見学しなければなりません。
坂本龍馬像のブロンズ像は、巨大です。
この坂本龍馬像は、実際の写真をモデルにしているので、実際の坂本龍馬に近いのではないかと思います。
 浦戸城跡
 浦戸城は本山氏の城でしたが、1591(天正19年)ごろ長宗我部元親が本格的な拠点とし、以後10年間は長宗我部氏の本城となりました。
1601(慶長6)年 長宗我部氏に替わって、山内一豊が、浦戸城に入城し、2年後の慶長8年に高知城に移ると、浦戸城は廃城になりました。
 長宗我部元親の墓
   長宗我部元親は、土佐の一郡から興り、土佐一国を掌中に収めました。
 さら、四国統一を成し遂げますが、天正13年春、四国へ侵攻してきた秀吉の大軍の前に衆寡敵せず降伏しました。以後、忠実な秀吉傘下の大名となり、慶長4年、京都伏見にて没しました。   
 雪渓寺
 雪渓寺は、延暦年間に弘法大師が開基し、少林山、高福寺と号して、真言宗の寺院でした。
 後、寺が荒廃し月峰上人が中興しました。月峰上人と面識のあった土佐藩主長宗我部元親が保護し、元親の宗派であった臨済宗に改宗しました。
 慶長4年に元親死後、菩提寺になったのを機に元親の号をとって雪渓寺となりました。
 大師堂
長宗我部信親の墓
 雪渓寺に、長宗我部信親の墓があります。
 信親は、元親の嫡子です。名の「信」は織田信長からの拝領したものです。
 豊臣秀吉の九州征伐の際、戸次川の戦いで、島津軍と戦い、奮戦虚しく22歳の若さで戦死しました。   
 高知城

高知城は、高知県高知市丸の内にある平山城で、国の史跡に指定されています。
戦国時代以前は大高坂山城という名称でした。

関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した長宗我部盛親は改易され、代わって、遠州掛川6万石から山内一豊が、土佐国一国24万2千石を与えられ入部しました。
浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家を総奉行に任じ、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備に着手しました。

慶長15年(1610年)、洪水が相次いだため、2代藩主・山内忠義は、「河中」の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名しました。この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになりました。   
追手門
山内一豊の銅像。
板垣退助の銅像。
板垣死すとも自由は死せず
山内一豊の妻、千代の銅像
一豊を支えた聡明な妻だったのでしょう。   
高知城は、観光客がたくさん歩いています。
今年のNHK大河ドラマの影響がかなりあると思います。
高知城 天守閣は、いい雰囲気です。さすが重要文化財だけあり、風格を感じます。
 坂本龍馬生誕地の碑
高知城から歩いて、坂本龍馬の生誕地に行きました。
現在は、大通りに面していて、建物の間に、石碑があります。
石碑は今、ビルの間になっています。

今日は、高知市内に宿泊です。