平成18年12月15日 曇り ときどき晴れ

羽田空港から、鹿児島空港へ来ました。初めての鹿児島入りです。
空港でレンタカーを借ります。

 大平山安国寺(臨済宗)


 大平山安国寺(臨済宗)は、足利尊氏が夢窓疎石の勧めで全国に建立したもので、この寺は大隅国の安国寺として建立された。
 古寺は現在地よりも200mほど南西の地にあり、京都妙心寺の末寺であった。
 近世初期、島津家久の時代、本尊や山門などは鹿児島や伊集院へ移されて長い間廃壊のまま放置されてきましたが、1924(大正13)年、鹿児島の南州寺の協力を得て1935(昭和10)年、京都相国寺の末寺として再興されました。


 門前の仁王像の顔・手が無い。これも廃仏毀釈の影響でしょうか。

 御所が原
 ここは、御所ヶ原と呼ばれ、征西府将軍懐良親王行在所跡です。
 南北朝時代、島津貞久は北朝方に、谷山五郎隆信は南朝に属していました。
 征西府将軍懐良親王は、1342(康永元)年に海路日向から南下して谷山に入り、見寄ヶ原に陣をしきました。
 見寄ヶ原はのちに御所ヶ原と呼ばれるようになりました。


 現在は、ここに火葬場があり、火葬場の横に1923(大正12)年に建てられた征西府将軍懐良親王行在所跡の碑があります。




 谷山本城跡

 南北朝時代、征西府将軍懐良親王を迎えた谷山氏の城です。



 山城です。一応、階段・道が整備されています。登ってゆきます。



 本丸の下、伊勢神社が祀られています。

 本丸は、平たくなっていて、杉林になっています。


 
見晴らしがよくて、桜島まで見えます。ただ、あまり天気がよくなかったです。

 本丸の一角には、勝軍地蔵が祀られています。






 谷山神社

 谷山神社の祭神は、後醍醐天皇の第9皇子・懐良親王です。



 懐良親王は南北朝時代の頃、父・後醍醐天皇に1336年に南朝方の征西将軍に任ぜられ、四国を経て九州に入り、のちに南朝方の谷山氏に迎えられ谷山氏の本城に入り、北朝方の島津貞久の軍勢と幾度と戦い、その後に熊本に向かいました。



 皇徳寺跡

 皇徳寺は、征西府将軍懐良親王にちなむ寺で、初め親王は御所ヶ原に皇立寺を建てました。
 1383(弘和3)年、親王が福岡県矢部で没すると、谷山忠高は親王の「遺牌」を安置しましたが、のち山田に移し、永谷山皇徳寺を建立しました。
 曹洞宗能登総持寺の末寺で、七堂の伽藍を備えた寺格の高い寺でしたが、1869(明治2)年の廃仏毀釈で廃寺となりました。今は仁王像と歴代の住職の墓や池が残ってます。






 島津義弘銅像

 伊集院駅前に、島津義弘銅像があります。
 島津17代当主島津義弘は、16歳になるまでの10年以上を、この街の一宇治城(城山)で過ごしました。
 勇ましくて、かっこいい銅像ですね。


 一宇治城跡

 一宇治城(鉄丸城)は、南北朝の頃、伊集院島津忠国の居城でした。
 島津貞久が1340(暦応3)年8月に忠国を破り、以後三州の動乱時代となりました。
 貴久は、1545年から1550年までここを居城としました。





 城山に登ると、切通・空堀・空井戸などが残っており、往事の面影をしのばせます。





 本丸跡には1549年日本にキリスト教を紹介したフランシスコ・サビエルが戦国大名貴久に謁見し、キリスト教布教の許可を得たという記念碑が立っています。


本丸跡です。





本丸下に、さざんかが咲いていました。


本丸下の掘




 もう日が暮れてきて、鹿児島市内へ向け帰路につきました。
 鹿児島空港で借りたレンタカーは、鹿児島市内の同系列のお店に返しました。