平成18年12月16日 曇り

鹿児島2日目です。
鹿児島中央駅の近くレンタカー屋さんで、レンタカーを借り行動します。

 大久保利通銅像
 甲突川の高見橋のたもとに、大久保利通銅像があります。
 鹿児島では、大久保利通はあまり人気が無いと聞いたことがあります。


 見るからに威厳がある顔つきをしています。



 西郷隆盛誕生地

 甲突川の大久保利通銅像がある場所から、下流にあります。



 多賀山公園(東福寺城跡)

 多賀山公園は、鹿児島市内の桜の名所として知られています。
 桜島や錦江湾が眼下に見渡せます。


 この公園には、無敵のロシア・バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥の銅像があります。




東郷平八郎元帥の銅像


 東郷平八郎元帥の遺髪墓があります。


 多賀山公園には、昔、東福寺城です。


 東福寺城は藤原純友から4代目にあたる長谷場永純が1053年に築いたといわれます。
 その後、長谷場氏が続き、南北朝時代には南朝方についた一族の矢上高純や中村秀純が入城し、さらに大隅にいた肝付兼重もこの城を守りました。
 しかし、暦応4年(興国2年、1341年)北朝についた薩摩国地頭の島津貞久が攻め落とし、ここを島津氏の鹿児島での拠点としました。



 東福寺城跡 本丸跡


 なにやら、神社の跡のようなものがあります。



 ザビエル陸上記念碑

日本にキリスト教を宣教するため、フランシスコ・ザビエル一行は、1549年8月15日に鹿児島のこの地に上陸しました。





 鶴丸城跡

 鶴丸城跡は、中世豪族市来氏の本城跡である。  鶴丸城は本城と5〜6の支城からなり、本城は高さ100m・周囲3km、山上各所には曲輪をもち平坦になっています。
 市来時家・氏家父子は南朝方に応じて島津貞久などと戦いましが、15世紀中頃、市来家親は島津氏に征服されました。市来氏の歴史は、守護島津氏との戦いの歴史でした。



この城には、フランシスコ・ザビエルが滞在し、城主達にキリスト教布教を行いました。

城の中腹には市来時家の武勲をたたえる「南朝忠臣市来氏顕彰碑」が立っています。


周囲は峻険な断崖がつくられ、かなりの高さです。




本丸と推定するあたりには屋形用らしい土台石がかなり散在しています。


 泰平寺

泰平寺は、奈良時代初期に薩摩国の中心都市、川内の地に、女帝・元明天皇の即位と共に出された勅願により、「天下泰平・万民豊楽」を祈願して建立された寺院です。

戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、薩摩の総大将・島津義久との和睦の会見が行われたました。


和睦石
 当時の泰平寺にあった石を並べ記念としたものです。


豊臣秀吉と島津義久の銅像


 安国寺跡
 薩摩の安国寺跡です。
 安国寺は、室町時代、足利尊氏が夢窓国師の勧めによって元弘以来の戦没者の霊を慰めるため、国ごとに一寺一塔を建立したものです。




 薩摩国分寺跡

国分寺跡の史跡公園としては、九州でははじめてのものであり、総面積16,449平方mです。
14個の礎石を使った塔跡の他、講堂跡、金堂跡、北門跡等当時の様子を復元してあります。












 薩摩国府跡
道路際に案内板が立っています。


大伴家持の銅像です。



 新田神社

天孫ニギノミコトを主祭神とし、アマテラスオオミカミとアメノオシホミミノミコトを祀った旧薩摩藩を代表する神社です。創建は725年と伝えられ、薩摩国一の宮として古来、南九州の人々に信仰されてきました。








ニギノミコト陵墓  
宮内庁が管理しています。




 伊作城跡(亀丸城跡)
伊作城の本丸「亀丸城跡」は、中世期の山城で、標高約73mの丘陵地にあります。
東に、蔵之城、東之城など数郭あり、西に、御仮屋城、西之城、花見城などが空堀によって隔てられています。
 伊作庄・日置庄の地頭となった初代島津久長の子孫が、南北朝の争乱によって伊作城を拡大強化させ第10代忠良(日新公)にいたるまでの伊作島津家の居城です。

忠良の長子貴久が本家島津勝久の養子として第15代守護となってからは、一外城として藩庁の支配下におかれました。





義久、義弘、歳久、家久の御誕生石


亀丸城跡の碑


善久、忠良、忠将、尚久の御誕生石


もう、薄暗くなってきて、鹿児島市内へ帰路につきます。