平成19年5月4日 福井県

昨日から,福井駅の近くに宿泊しています。

 北ノ庄城跡
 北ノ庄城跡は、織田信長の居城・安土城の天守閣でさえ7層であった時代に、なんと9層もの天守閣を持つ日本最大級の城でした。柴田勝家が、4年の歳月をかけて築いたといわれています。
 しかし天正11年、豊臣秀吉の軍との戦いに破れた勝家は、自ら火を放ち妻のお市の方や一族とともに壮絶な最後を遂げ、北ノ庄城もわずか8年という短い命を閉じました。
 現在、ここには柴田勝家,お市の方の像が建てられています。


 柴田勝家が築いた北ノ庄城跡の本丸跡は、現在柴田神社があります。福井駅から歩いて10分程です。
 柴田勝家は、福井の基礎を築いた人でしたが、織田信長の死後、羽柴秀吉と敵対し、天正11年5月,城と共に滅ぼされました。

  柴田勝家の銅像



  お市の方の銅像


 福井城跡
 福井城は、徳川家康の次男、結城秀康によって1601(慶長6)年から約6年の年月をかけ築城されました。
 足羽川、荒川を天然の外堀とし、南を正面とする本丸を中心に山里丸、二の丸、三の丸が配され、北陸の要として威容を誇りました。
 1669(寛文9)年の大火で天守を始め大半の建物を消失した。直ちに復興が図られましたが、以後天守は再建されていません。現在は本丸の石垣の一部を残すにすぎません。


 今日は、ゴールデンウィークすでし、朝も早いので人は歩いていません。


 広いお濠です。

結城秀康の銅像

福井城跡も、福井駅から歩いて10分ほどの距離にあります。
立派なお堀・石垣があります。
現在は、敷地内に、福井県庁、福井県警の本庁舎が建っています。城の中に、県庁・警察あるのは珍しいと思います。







 越前一乗谷遺跡
 一乗谷朝倉氏遺跡は、今から約500余年前の1471(文明3)年、戦国大名・朝倉氏が5代百年間にわたって支配した城下町跡です。
 最盛期には、人口1万人を超えたといわれ、雄大な城下町と雅やかな文化の華を咲かせました。
 しかし、朝倉氏は1573(天正元)年に織田信長に敗北し滅ぼされ,歴史の幕を閉じました。
 長い時が経ち、昭和42年、初めて本格的な発掘調査が行われ、当主の館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路など,町並がほぼ完全な姿で発掘されました。日本のポンペイともいわれます。
 平成3年には朝倉氏遺跡内の4つの庭園が、国の「特別名勝」にも指定されました。

天気もよかったですが、一乗谷遺跡は、発掘されよく整備されていて,夢の国のようです。
朝倉氏の時代も,整備された城下町があったのでしょう。
一乗谷遺跡は、朝倉氏の滅亡後、長い間土の下に埋もれていて、その後発掘されたため、日本のポンペイとも言われています。
朝倉氏は,上級武士だけ兵農分離され,この城下町に移り住んでいました。






朝倉義影館跡の入り口には、豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられる唐門があります。

遺跡には発掘された四つの庭園があります。
朝倉館跡庭園、南陽寺跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園です。


 朝倉義景の墓


 朝倉義影館跡


朝倉館跡庭園



南陽寺跡庭園




湯殿跡庭園






湯殿跡庭園もいいなあと思っていたのですが、びくりしたのが諏訪館跡庭園です。

諏訪館跡庭園
五代当主朝倉義景が、側室「小少将」のために造ったと伝えられる館で、その庭園は特別名勝に指定されています。4つある庭園の中でも最も規模の大きな庭園です。

上下2段の庭園になっており、下段は、石に囲まれた池、滝があります。






上段には、山から引いてきた水を川のように流しています。下段の庭に流れ込み、滝となります。見事というか、豪華です。朝倉氏の栄華をしのばせてくれます。
この庭園は、すぐ側まで近寄って見ることができます。流れる水を手ですくうこともできます。
私にとっては、京都の西芳寺庭園を初めて見た時とほぼ同じぐらいの感動でした。
今回の旅の中で一番の収穫でした。見ることがで幸せでした。(^^)

英林塚(孝景墓)
朝倉孝景の墓です。孝景は、応仁の乱で活躍しました
下克上により、越前の守護に成り上がり、朝倉氏の基礎を築いた武将です。


御所跡
一乗谷遺跡には、室町幕府15代将軍となる前の、足利義昭が滞在したという御所跡もありました。



一乗谷遺跡の見学を終え、次は、富山県へと移動です。
途中、石川県の金沢もあったんですが、ゴールデンウィークということもあり、兼六園とかは込んでいるだろうと思い、北陸自動車道で、石川県はスルーしました。

 越中 守山城
 守山城は、南北朝期に桃井氏によって築かれ、南北朝後半には越中守護斯波義将の居城となりました。
 室町時代は、守護代神保氏の持城となり、天正4年に上杉謙信に攻められ落城しました。
 天正13年、佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると守山城は前田利家の所領となり、利家の嫡男利長の居城となります。
 慶長2年、前田利長は居城を富山城へと移し、その後は前田長種が城代となりましたが程なく廃城となりました。 





 本丸跡は広場になっており、大きな観音像があります。ボタン桜がありましたが、ほとんど散りかけてました。

 今日の観光はこれで打ち止めにし、富山市内に行きホテルにチェックインすることとします。