平成19年5月5日 富山

 興国寺・越中安国寺
足利尊氏の政策により、諸国に設置された寺で、越中の安国寺です。
興国寺は、桃井直常が建立し,桃井直常の位牌があるそうです。本尊は釈迦如来です。





 今山田の大かつら
富山県指定天然記念物となっています。
案内板によると、室町時代、後醍醐天皇の第8皇子宗長親王がこの木の下におかくれになったという言い伝えがあるそうです。
樹高 25m、幹囲 14m、推定樹齢 700年だそうです。

道路に立っている人と比べると、その大きさに驚きます。




 高岡大仏
 大仏様は、やさしく慈悲深いお顔をしています。
 高岡大仏は、奈良大仏、鎌倉大仏と並んで日本三大仏に数えられ、高岡のシンボルとなっています。
 高岡大仏は、その歴史の始まりを1221年頃までさかのぼります。当時、摂津国の源義勝が越中に移り、二上山麓に1丈6尺(約5メートル)の木造大仏を造営したのが始まりです。その後、1609年に前田利長が今の大手町に移し、長年にわたって高岡町民に親しまれてきました。
 しかし、大火による消失と再建を繰り返したことから、火事で燃えることのない大仏をと、380年の伝統を誇る高岡銅器の職人の手による大仏が昭和7年12月に完成し、昭和8年5月に開眼式が盛大に行われました。
よくぞ戦時中に供出されなかったものです。





 高岡城跡
加賀藩二代藩主前田利長が築いた城です。
お堀は、外堀・内堀が残っている立派な城跡です。本丸跡には、神社、広場があります。

慶長14年(1609)に前田利長が築城した城で、設計は高山右近と伝えられます。利長死去後、一国一城令に伴う廃城により城内の建物は破却されましたが、三代藩主利常公の配慮によって、曲輪や水濠など城の基本機能は残されました。明治維新に伴う民間払い下げの危機も、高岡町民の熱心な保存運動により、都市公園(現 高岡古城公園)となることで切り抜けました。
 朱塗りの橋が出迎えてくれます。



 城跡中央部には、現在、射水神社があります。



 前田利長に騎馬像です。

 瑞龍寺
境内に入り、伽藍の規模の大きさ壮麗さ、古さにびっくりしました。
京都にある有名なお寺と比べても遜色がありません。この場所が京都だと言われても信じてしまいそうです。地方都市にこんな立派な寺院があるとは。高岡恐るべしです。

瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長の菩提を弔うため、三代藩主利常が20年の歳月をかけ1663年に建立したものです。利常は、利長の異母弟で、跡継ぎに指名されたことに、兄へ恩義を感じたからです。
総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配し、左右に禅堂、大庫裏を置いてそれを回廊で結ぶ大建築、大伽藍です。
仏殿、法堂、山門の3棟が国宝に指定されています。


        山門(国宝)

        仏殿(国宝)







 恒性王子陵墓
後醍醐天皇皇子 恒性王のお墓です。父帝の後醍醐天皇が元弘の変の事が破れ、恒性王は越中に流され、殺されたといわれています。
富山県高岡市二塚にあります。



 國泰寺
 国泰寺は、臨済宗国泰寺派の総本山で、正安年間(1299-1302)、慈雲妙意により開山です。はじめは摩頂山東松寺といいました。
 後醍醐天皇(在位1318-39)の帰依を受け、嘉暦2年(1327)には「清泉禅師」の号を賜り、翌年「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺」の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称するとともに「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となりました。
 光明天皇(在位1336-48)により、越中国の安国寺に定められます。
 その後、寺は荒廃しますが、後奈良天皇の綸旨を受けて再興し、天正年間には二上山より現在地に移り、1686年、現在の大方丈が建立され、5代将軍綱吉は、法燈派総本山となりした。





 この寺には室町時代、安国寺利生塔が設置されていました。現在の利生塔は平成の再建です。


それから家へ帰るため、帰りは、北陸道、上信越道、関越道を通り帰ってきました。
関越に入るまでは順調に車が流れていましたが、関越で事故渋滞が2カ所ほどあり、1時間ぐらい余計に時間がかかってしまいました。

多少疲れましたが、無事に家に帰り着いてよかったです。