平成19年6月

 高舘(たかだち)
 高舘から東を望むと、北上川の向こうに秀峯・束稲山が見えます。
 この山は、かつて安倍頼時の時代に、桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所でした。
 黄金文化華やかし藤原三代のころには、さぞや見事な花が山々や川面を彩ったことでしょう。

 高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡の時代から、要害地とされていました。
 兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は、藤原氏三代秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。
 しかし、文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。
 丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。
 高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)が見えます。また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。
○ 義経堂
源義経
源義経供養塔
 昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のため造立されました。
1689(元禄2)年の夏、芭蕉は曽良とともにこの高館を訪れました。
以下、奥の細道より。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。
先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。
泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
   夏草や つわものどもが 夢の跡
  
 無量光院跡
 藤原三代の秀衡が造営した無量光院は宇治平等院の鳳凰堂を模しています。
 その居館である伽羅御所の比較的近くにあります。
 その遺跡は水田化していますが、現在でも池跡・中島・堂礎が残っています。
 現在まで、伽藍・仏像等が残っていれば、間違いなく国宝に指定されるような、壮大な寺院だったのでしょう。
伽藍の礎石が見えます。
 柳之御所跡
 平家滅亡後に頼朝と対立した義経は奥州藤原氏に匿われていました。
 1187年(文治3年)、藤原秀衡が病死する時、源義経を盟主として従うように遺命を残しました。
 頼朝は義経討伐を促していたが秀衡は拒絶し、泰衡も遺命に従い度重なる義経討伐要求を拒否していました。
 しかし、朝廷から義経追討令が出たことなどで要求に屈し、1189年(文治5年)4月、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送りました。
 一方、義経が死んだ直後、頼朝は勅命を待たずに奥州藤原氏の討伐軍を起こして奥州合戦が行われることになります。
 奥州藤原氏は阿津賀志山の戦いなどでことごとく敗北し、平泉に火を放ち、三代の栄華は、灰燼に帰した。藤原氏の平泉の政庁が、柳之御所跡です。    
 今も発掘調査が行われている柳之御所跡は、北上川で一部削られてしまったところもありますが、奥州藤原氏が政事を行った「政庁=平泉館」の跡と考えられる場所です。
 この場所に、国道4号線のバイパスが建設されることになり、発掘調査で遺跡が発見されました。
 発掘調査では、敷地の周りには堀があったことやその中には板塀で囲まれた区画があったこと、大きな建物や庭園などがあったことが分かりました。
 その頃の生活様子が分かる品物、特に木製品、 下駄やひしゃく、はしとお椀、お盆、将棋の駒、化粧道具の鏡の箱、くしなども見つかっています。また、宴会や儀式用の使い捨ての器・かわらけがたくさん見つかっています。
 伽羅之御所跡
藤原秀衡と泰衡の住まい跡と考えられている場所が、伽羅之御所跡です。
ここでは、道路や堀、塀、ゴミを捨てたと思われる穴、井戸などの跡のほか、金銀で美しく飾った鏡箱と銅で作った美しい鏡も見つかっています。
 柳之御所資料館
中国から輸入された磁器や、日本国内でも今の愛知県や石川県で作られた陶器など、発掘調査で見つかったものを展示しています。 こうした品々は、奥州藤原氏が国内のほかの地域はもちろんのこと、遠く中国とも交流があったことを教えてくれます。

 これで平泉周辺の観光を終了し、宿泊地の仙台へ向かいます。