平成19年9月24日 京都
 東福寺

関西旅行、最後の日は、朝一で、京都の東福寺へ行きました。
といっても、10時半ぐらいですが。
東福寺は、初めてです。

東福寺は、京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山です。
摂政九条道家が嘉禎2年(1236年)に聖一国師(円爾弁円・えんにべんねん)を招いて京都最大の寺院を建立したのが始まりです。
 退耕庵
退耕庵(たいこうあん)は,東福寺の塔頭のひとつです。本尊は千手観音。
貞和2年(1346年)の創建で,応仁の乱により一時荒廃しましたが、慶長年間に安国寺恵瓊によって再興されました。
 安国寺恵瓊は,ここ退耕庵の庵主となりました。


東福寺は、京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山です。
摂政九条道家が嘉禎2年(1236年)に聖一国師(円爾弁円・えんにべんねん)を招いて京都最大の寺院建立したのが始まりです。
東大寺,興福寺から一字ずつもらい,東福寺としています。
通天橋
 洗玉澗にかかる通天橋付近は初夏は新緑、秋は紅葉の名所として知られます。  
東福寺は、秋の紅葉でも有名です。
紅葉シーズンは、たくさんの人が拝観に来ます。今のモミジは、青々としています。
次は、紅葉のまっ盛りのシーズンに、来たいものです。

東福寺に入ります。
本堂
本堂、山門の伽藍が迎えてくれます。巨大な伽藍ですね。
歴史がある大寺の雰囲気があります。
山門
三門は、応永年間(15世紀初頭)の再建で、国宝です。
本堂  昭和の再建です。
この本堂には、日蓮宗の宗徒が寄付した柱が一本あります。
東福寺は、臨済宗です。
これは、なぜかというと、鎌倉時代、日蓮が京都で迫害を受けたとき、東福寺の円爾弁円が日蓮を保護したそうです。
その故事があり、日蓮宗が恩を返したということです。
庫裏
方丈庭園
庭園は近代の造園家・重森三玲の作で、方丈を囲み、東、西、南の庭がに配されています。

南庭
南庭は、古代中国の蓬莱神仙思想を現した、「八相の庭」です。
白砂と巨石と苔地を配置しています。
枯山水の庭ですが、本当の海、島、山のように思えてきます。
いい庭ですね。しばらく見とれていました。
西庭
モダンな庭です。
東庭
この庭も変わっています。
白砂,苔,さつきの刈り込みで構成されています。   
東庭
三尊石です。
北庭
北庭は、石と苔を幾何学的な市松文様に配しています。モダンですね。
方丈の建物です。

 泉涌寺

東福寺から近かったので、泉涌寺(せんにゅうじ)へ来ました。
泉涌寺は、日本で唯一の皇室の菩提寺として「御寺・みてら」と呼ばれています。
寺伝によれば、天長年間(824〜834)に空海が草庵を結んだのが起源といわれ、建保6年(1218)、月輪大師が泉涌寺と改め大伽藍を造営しました。
1242年、四条天皇の大葬が行われてから皇室の菩提寺となり、境内の最奥には非公開ながら後水尾天皇以降、十三代にわたる天皇陵を含む二十五もの陵墓が並んでいるそうです。
しかし、明治維新とともに、廃仏毀釈があり、皇室の菩提寺である泉涌寺は、建前上皇室と切り離され、寺の経営は困難な事態に追い込まれてきました。

廃仏毀釈は、困ったものです。それまでの歴史や人の思い入れを、全く無くしてしまいます。
仏殿
いい雰囲気です。   
舎利殿
御座所 庭園
御座所は、明治天皇により御所内の御里御殿が移築されたものです。
紅葉がきれいそうな庭です。

 新熊野神社〜能発祥の地

泉涌寺を見てから、新熊野(いまくまの)神社へ参拝します。
新熊野神社は、後白河上皇の命によって、平清盛が、永暦元年(1160年)に熊野三山からこの地に勧請し社殿を創立したものです。
皇室の尊崇が篤く、社殿を荘厳を極めたそうですが、応仁の乱で興廃し、現在の社殿は寛文13年(1673)に再建されたものです。
この神社には、後白河上皇お手植えと伝わる大楠があります。
樹齢850年、高さ約19m、周囲約6mだそうです。
また、新熊野神社は、足利義満と世阿弥の邂逅の地でもあります。

1374年ごろ、猿楽の勧進興行を行われていた新熊野神社に、時の足利三代将軍 義満が見物に来ました。

当時、足利義満18歳、世阿弥12歳ぐらいです。
ここで義満は、世阿弥を見て一目ぼれしてしまいます。

世阿弥、その頃は、名を鬼夜叉(おにやしゃ)とい名乗っていました。
鬼夜叉は、絶世の美少年だったそうです。
当時は、男性が男性を愛することは、珍しいことではなかったのです。

以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護し、世阿弥を寵愛するようになりました。

義満のすごい所は、ただ世阿弥を寵愛するだけでなく、彼に当時、日本最先端の学問を受けさせたことです。

義満は、藤原氏の氏の長者であり、摂政、関白、太政大臣になった二条良基に、世阿弥の学問先生になることを命じました。

義満は、絶対権力者で、関白であろうと言うことをきくしかありません。

世阿弥は、二条良基から、王朝時代の歌学・文学を教授されたことでしょう。
これが、能楽の大成に、どれだけ役立ったか計り知れないそうです。

当時の芸人というのは、被差別民で、学問を受けられません。

世阿弥は、貴族の教養を身に付けることにより、たくさんの能楽の作品をつくり、「風姿花伝」(花伝書)を著すことができました。

今でも現代に残る、「秘すれば花」、「初心忘るべからず」などの言葉は、花伝書に書かれています。

新熊野神社を参拝してから、市バスに乗り祇園へ向かいます。

祇園で下車し、南座の方へ歩いていきます。
南座の脇の松葉で、久しぶりに、にしんそばを食べました。美味しかったです。

そして、松葉の前の道路の反対側で、午後2時に、マイミクの左近将監と待ち合わせです。
左近さんは、京都にお住まいで、1ヶ月前にマイミクにさせていただきました。

今回、私が関西に旅行に来ていると日記に書いたら、京都に来るなら連絡をくださいとメッセをいただき、四条で待ち合わせとなりました。

約束の時間10分前に、左近さんと奥様が車で来られ、初対面にも関わらず車に同乗させていただきました。

四条から、車で、戦国時代関係のお寺ということで、妙覚寺をご案内いただきました。


 妙覚寺
妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山です。
京都の市街地の北の方です。

妙覚寺は、元々、1378年(永和4年)、四条大宮に建立され、足利義尚の命により二条衣棚に移転し、後に豊臣秀吉の命により、現在地に移転しました。

正門は豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを移築したと伝えられます。
二条衣棚にあった頃の妙覚寺には、かなりの有名人と所縁があります。
司馬遼太郎さんの「国盗り物語」で有名な斉藤道三は、若い頃、妙覚寺で修行していました。後に、道三の子供は、この妙覚寺で僧となりました。

一時、室町13代将軍 足利義輝の御所となりました。

織田信長は、上洛後、しばしば妙覚寺を宿所としました。
信長は、岳父の道三に縁が深かったので、愛着もあったのでしょうか。

1582年、本能寺の変のとき、信長の子、信忠が滞在し、戦で伽藍が炎上します。


妙覚寺には、斉藤道三から織田信長への、美濃国の譲り状が現存しています。
庭園を拝観しました。
ここで、ご住職から、妙覚寺の由来を説明していただいて、お茶とお菓子をいただけました。

このあと,夕立が降り始め,京都駅に着く頃には,土砂降りになりました。