平成20年 1月 広島県 福山市

 福山城
福山城は広島県福山市丸之内1丁目にあった城で、国の史跡に指定されています。

久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれます。
日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構です。
JR西の福山駅のすぐ傍にあります。
重要文化財
伏見櫓(ふしみやぐら)
現存する伏見櫓は、京の伏見城廃城の際に伏見御殿共々移築された。 大型で古風な造りの櫓で、風格とどっしりとした趣のある櫓である。
重要文化財
筋鉄御門(すじがねごもん)
伏見櫓に虎口を守られているのが筋鉄門。 この櫓門(復元)も伏見城から移築されたものだったと言われている。
鐘櫓
復元された白亜の五層天守、2層の付櫓を伴ったその姿は、華麗で、安定感があります
 元和5年、安芸・備後国主の広島城主福島正則が改易されると、幕府は、大和郡山城主の水野勝成を10万石で備後に封じた。
 勝成は、三河刈谷城主水野忠重の嫡男に生まれた。
 幕府は、安芸広島の浅野、長門萩の毛利と西国大大名への監視と牽制のため、徳川一門とも言える勝成を備後に配置した。
 元和6年、水野勝成は、山陽道への押さえ神辺城、瀬戸内の海路の押さえ鞆城を廃し、両城の機能を併せ持った新城を築城し、福山城と名付けた。
 元禄11年、5代水野勝岑が継嗣無く水野氏は断絶する。 その後には、松平(奥平)忠雅が出羽山形より入封するが、宝永7年には伊勢桑名へ転封となった。
同年、下野宇都宮より阿部正邦が10万石で入封し、以後阿部氏が明治まで9代続いて明治に至った。 幕末の老中阿部正弘は、7代福山城主である。
福山城は10万石の城としては破格の巨城で特に5重の天守や三重櫓7基を始めとした20以上を数える櫓は特筆に値する。 
更に築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けており、福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことが伺える。なお、築城時の縄張りは若干の改修はあったものの基本的に廃城まで維持されている。
阿部正弘銅像
 福山県立歴史博物館前の広場
 斬新なデザインのオブジェです。
 これも剣か石か、わからないですね。