平成20年 2月 三重県

 伊勢国分寺
 聖武天皇は、社会不安を仏教の力によって治めようと、天平13(741)年各国司に 対して僧寺と尼寺の二ヶ寺の建立を命じました。国分寺建立の詔です。
伊勢国分寺も、伊勢の国分寺として設置されました。

伽藍配置は、発掘調査の結果、寺域と金堂・講堂の位置だけが把握できるに至りましたが、まだ塔跡が発見されていないとのこと。
立派な鈴鹿市考古博物館からさほど遠くないところに、伊勢国分寺跡を示す石柱が立っています。
畑の中にぽつんと立っており、さびしい感じがしました。
訪れたのが2月の寒い時期だったからかもしれませんが。


 加佐登神社

加佐登神社は丘の上にあります。
麓の駐車場に着くと、雪がちらほら降り始めました。車を停め、長い石段を登っていきます。

 祭神は日本武尊、天照大神ほか14神です。

 日本武尊が死ぬ間際に持っていた笠と杖とを御神体として祭ったのが、この神社の始まりだそうです。

 古くは御笠殿社と呼ばれて、明治以降に現在の加佐登神社になりました。


 白鳥塚古墳
加佐登神社の西後方に、日本武尊の墳墓といわれる白鳥塚古墳があります。(県史跡)
加佐登神社から、一旦坂道を降りて、神社の裏側の方へ回ります。
白鳥塚古墳は、直径70m、高さ13mの三重県下最大の円墳で、ヒヨドリ塚などと呼ばれいます。
 日本武尊は、東征の帰途、能褒野(のぼの)で病死され、ここに墓を営んだが、大和を偲ぶあまり、白鳥となり飛びたったとの伝説があります。
 本居宣長はこの塚を日本武尊の墓として有力視しました。


 神戸城跡
神戸城は、三重県鈴鹿市神戸本多町にあった城です。
江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれました。
だんだん、雪の降り方が強くなってきました。
本丸跡へ向かいます。
天正8年(1580)、神戸信孝(織田信長の三男)が、金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築きました。
しかし、本能寺の変後、信孝は岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃しました。
文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれました。

以後、江戸時代を通して天守閣は造られず石垣だけが残されました。
雪の中、地元の方が、クロッケーをやっていました。
現在は野面積みの石垣だけが残り、付近は神戸公園として市民の憩いの場所となっています。
雪が本降りになり、寒いです。


 能褒野陵

能褒野(のぼの)陵は、安楽川にかかる能褒野橋の北にあります。
東隣には能褒野神社があります。
能褒野神社に向かいます。
雪が降っており、薄暗いせいか、能褒野陵の場所が判りませんでした。

やっと、能褒野陵へ通ずる小路を見つけました。一旦、低地へ下りるような道です。
能褒野陵は、長さ90m、前方部径44m、後円部径56mの大きな前方後円墳です。
もともとは丁字塚と呼ばれていました。

明治12(1879)年に、当時の内務省が日本武尊の墓と指定しまし、周囲に土柵や鳥居、石段を設置しました。


日本武尊の墓にはいろいろな説があり、鈴鹿市の白鳥塚古墳なども有力な候補となっています。
もう、雪が本降りになり、寒すぎるので、見学を終了し、ホテルへ向かうことにします。
この日の宿泊地は、奈良県の奈良駅の近くのホテルでした。
三重県は、奈良へ行く途中の見学でした。ここから、奈良へ行くのが遠かった。