平成20年 2月 奈良

 般若寺

般若寺(はんにゃじ)は、奈良市街の北部にあります。
コスモス寺の名で知られています。 花の寺で、有名なようです。

寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされています。

治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようです。

鎌倉時代に入って、般若寺のシンボルとも言える十三重石塔の再建が始められ、僧・良恵(りょうえ)らによって建長5年(1253年)頃までに完成しました。

さらに、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われました。

延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)の松永久秀の兵火によって、また、主要伽藍は焼失します。
明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けました。

近代に入ってから寺は荒れ果て、無住となり、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されてきました。

観料500円を支払い、お寺に入ります。
まず、この寺で見たかったのが、国宝楼門です。
楼門(国宝)
 楼門は、鎌倉時代に建てられたもので、その均整のとれた形とすぐれた意匠は、楼門建築の傑作と評判が高いです。

う〜ん、古い木造建築の門にしか見えません。(^^;
ただ、2階の柱が短いの特徴で、全体的にすっきりとした姿で、かたちがよいですね。 千年以上前の建築とはすごいです。よくぞ、焼失しなかったものです。
本堂(奈良県指定文化財)

本堂には、この寺の御本尊、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)が鎮座しています。
文殊菩薩騎獅像は、墨書銘により、西大寺の律宗の僧で、真言宗醍醐寺座主の文観上人が自ら願主となり、前伊勢守藤原兼光を施主として、康俊・康成父子が造立したものであることが判ります。
墨書銘にある「金輪聖主御願成就」とは、後醍醐天皇の倒幕計画であった「正中の変」のこととされ、後醍醐天皇の腹心であった醍醐寺座主文観上人が、六波羅探題の評定衆であった藤原兼光を引き入れ、討幕成就を祈って造立したとされています。

藤原兼光、すごい人です。 鎌倉幕府の要人だったのに、裏で幕府を裏切り、後醍醐天皇に味方しています。
般若寺境内には、十三重の石宝塔が、にょっきりと立っています。

十三重の石宝塔(写真2)は、鎌倉時代に再建されたもので、国重要文化財です。
低いものかと想像していたのですが、意外に巨大です。

塔は仏舎利(釈尊の遺骨)を祀る建物で伽藍の中心をなしています。
現在の石塔は、中国南宋の明州から渡来した石工・伊行末(いぎょうまつ)が建長5年(1253)頃建立したものです。

伊行末は、治承の乱(1180)で荒廃した東大寺の復興にも尽力し、大仏殿や講堂の石壇の工事を担当したといいます。


 平城宮跡
平城宮(へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。
1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界文化遺産に登録されました。

平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から構成され、約120haを占めていました。

壮大な「朱雀門」、奈良時代の庭園の様子がしのばれる「東院庭園」も復元されています。 また、平城遷都1300年となる2010年の完成を目指し、宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿の復元工事を行っています。
内裏跡の東側にある「宮内省復原建物」
前の日に降った雪が、まだ積もっています。
大極殿跡
復元された礎石の位置が、雪が積もっていますがなんとか判ります。
若草山の方角。
一面、雪景色です。


 法華寺
光明皇后ゆかりの寺として、また門跡尼寺(皇族などが住職となる格式高い寺院)として知られます。

東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺であり、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といいました。

法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりとされます。
現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものです。
本堂(重要文化財)

本堂は、慶長6年(1601年)、豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建されたものです。寄棟造、本瓦葺き。
再建にあたっては、地震で倒れた前身堂の部材が再利用されています。

堂内厨子に本尊十一面観音像を安置しています。
擬宝珠に、「秀頼公 御母寺」が読み取れます。
御母寺の御母とは秀頼公の母淀君のことで淀君が法華寺を厚く帰依していたようです。
擬宝珠には「片桐」が読み取れます。


 秋篠寺
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院です。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は善珠とされています。
宗派は、法相宗から始まり、真言宗、浄土宗と属しましたが現在は単立です。

[日本後紀]に大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったそうです。

国宝の本堂と伎芸天像で有名です。
現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建です。
全体に簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物であります。
堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間です。
伝・伎芸天立像は、本堂仏壇の向かって左端に立っています。

瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像です。

頭部のみが奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和しています。

「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明だそうです。