平成20年 4月

 備中松山城

中腹の大駐車場まに車を停め、そこからバスで、備中松山城へ登り口まで行きます。
バスが走る道は、普通車の交互通行が難しいような道でした。
終点には、バスの回転ができるような舗装された広場があります。
バスを下車して、山道を登り始めます。
ほんとうに山城です。
途中、石段もあります。
高梁市街がよく見渡せます。
備中松山城の天守は、標高430mの臥牛山頂上に建っています。
天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。

別名、高梁城(たかはしじょう)。国指定の史跡。日本100名城となっています。
日本国内の、現存する天守がある12か所の城の内の一つです。

鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたが始まりで、、1683(天和3)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になります。

この地域は、山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代がありました。

登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえています。 
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして廊下が附属する複合式望楼型天守です。

外観は、建物高さが約11mほどで現存する12か所の天守の内では最も小規模ですが、12か所の内では最も高所にあります。
明治の廃城令以後、松山城は荒れるにまかせていたので、城地や建物は朽ちて倒れ、かろうじて天守閣と二重櫓が雑木や草におおわれながらも残っているという、いたましい姿になっていました。
1929(昭和4)年、由緒ある山城の面影を残そうとする松山城保存会の人たちが復旧に立ち上がり、天守閣の解体修理、二重櫓と土塀の補修し、1930(昭和15)年復元修理が終わりました。
そして、翌年には、中世式の名残りを多くとどめている典型的な山城として「国宝」に指定されましたが、1950(昭和25)年の文化財保護法の制定にともない、新たに国の重要文化財として指定されました。