平成21年 4月29日

 高取城跡

GW、壷坂寺を参拝した後、高取城跡へ向いました。
高取城、去年の2月、車で奈良へ来て、やはり壷坂寺を参拝し、高取城跡へ向おうとしました。
高取城跡へ向う道は林道なのですが、前の日に降った雪が路面に残っており、泣く泣く城攻めを断念しました。

やはり、あの時、撤退してよかったです。
高取城跡へ向は林道、ガードレールも無い道でした。

壷坂寺は山の中腹にあるのですが、高取城跡は、高取山の頂上にあります。

高取城跡は、駐車場がありません。林道を一番先まで行くと、行き止まりになり、道路に車を停めるしかありません。
幸いに、車を停めるスペースがありました。
車を停め、高取城跡への山道を登り始めます。
ゆっくり登っても5分弱で、高取城跡へ行けます。
城跡へ近づくと、立派な石垣が見えてきました。
高取城は、標高583mの高取山山上に築かれました。
江戸時代は、植村氏の高取藩の藩庁で、国の史跡に指定されています。
山城としては日本一の広さを誇り、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられています。
高取城跡の面積は約10,000uあり、とてつもなく広いです。
江戸時代、植村氏は、常時この山城に住んで、質実な生活を送ったそうです。

高取城は、幕末に、天誅組の変で攻撃を受けます。
1863年(文久3年)8月26日尊王攘夷急進派、天誅組千余名が五條から来襲しました。

司馬遼太郎さんの短編「おお、大砲」によると、高取藩は、「大阪夏の陣」で用いた大砲(ブリキトース)を6門保管していました。

この大砲により、天誅組を撃退しました。
壮大な石垣が現在でも残っています。
これだけの石は、どこから切り出されてきたのでしょう。
ここまでくると石垣群は、巨石文化です。

明治20年(1887年)頃まで、天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていましたが人里離れた山頂であるため管理するものもなく自然崩壊したとのことです。

残念です。
天守閣が現在まで残っていれば、重要文化財には指定されたでしょうに。

高取城跡は、モミジの木があり、秋の紅葉もきれいそうです。