平成21年5月4日

 法雲寺
mapion

GWに岐阜県揖斐川町にあるお寺、法雲寺を尋ねました。
華厳寺よりも山に入った所という感じでしょうか。
法雲寺には、土岐頼芸(とき よりのり)の墓があります。

私が、土岐頼芸を知ったのは、中学生の時でした。

私が中学生の時、初めて自分で購入して読んだ文庫本が、司馬遼太郎さんの「国盗り物語」です。
そして、初めて見たNHK大河ドラマも「国盗り物語」です。

大河「国盗り物語」では、斎藤道三役は平幹二郎、織田信長役は高橋英樹、明智光秀役は近藤正臣でした。皆さん、かっこよかったです。非常に懐かしい。

「国盗り物語」は、私が戦国時代を好きになるための扉を開けてくれました。

国盗り物語では、斎藤道三(晩年の頃の名称ですが、便宜上使用します。)が、土岐頼芸を美濃国主の座に就け、結局は頼芸を追放し、道三が国主となります。
まさに、国盗り物語です。

土岐頼芸は道三により、尾張へ追放されました。

頼芸、尾張の織田信秀、越前の朝倉孝景の支援を受けて、美濃国主の座に返り咲こうとしますが、夢は叶いませんでした。

頼芸は、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸に寄寓、次いで上総の土岐為頼を頼り、のち甲斐の武田氏に身を寄せることになります。

実弟の治頼(はるより)は、現在の茨城県稲敷市にあった江戸崎城の城主です。美濃国から婿入りしたのです。

土岐頼芸が茨城にまで流れてきたのかと、後で知り、感慨深いです。

頼芸は、流浪中、病により失明します。

最後は旧臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃に戻り、死去したと言われています。

墓は、岐阜県揖斐川町谷汲岐礼の法雲寺あります。
法雲寺は、人気が無く、無住の寺のように見受けられました。
 
土岐頼芸の墓は、宝篋印塔や五輪塔でもなく、自然石にそのまま戒名などを彫ったようです。

土岐頼芸の墓の示す岐阜県の木柱は、根元が腐って倒れかけていました。
寂しいですね。

頼芸は鷹の絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されています。

頼芸が亡くなったのは、天正10(1582)年12月4日だそうです。

斎藤道三、その子・斎藤義龍、義龍の子・龍興、そして織田信秀・信長父子よりも長く生きました。

晩年の頼芸は、谷汲で静かに穏やかに生きていたのではと思います。