平成21年5月24日

 善光寺

「牛にひかれて善光寺参り」   ことわざです。

意味は〜 「信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰した」という話から、「思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ」

私は無知だったのですが、ちゃんと意味があったのですね。(^^;


さて、私は、これまでに、板東三十三観音、西国三十三所が満願となりましたので、お礼参りとして、長野 善光寺を参拝してきました。

5月下旬のことです。
折しも、数え7年毎に行われる、お前立ちの特別御開帳が行われていました。

善光寺のご本尊は絶対秘仏です。
鎌倉時代以来秘仏とされ、ここ数百年間見た者はいないとされています。

ご本尊の忠実な写しとされるお前立の阿弥陀三尊像(重要文化財)は、鎌倉時代に造られました。

お前立は、数え7年に一度の開帳(公開)が行われます。(満6年に一度)。


家を早朝に出発し、車で行きました。

日曜日の朝、8時30分過ぎに、長野市にある善光寺に着きました。
しかし、もう参拝客がいっぱいでした。(^_^;

仲見世通り



善光寺の御本尊・阿弥陀三尊像は、欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖明王から伝えられた、日本最初の仏像であるといいます。

欽明天皇が蘇我稲目に祀らせたところ、疫病が起こり、これを神罰とした物部氏によって、阿弥陀三尊像は難波の堀江に捨てられました。

捨てられたこの仏像を602年頃、本田善光が発見し、出身地である信濃国麻績の里(おみのさと、現在の長野県飯田市座光寺)に持ち帰り祀りました。

642年、現在の長野県長野市に移され、ここに建てられた堂宇が今の善光寺の始まりとされます。


その後、戦国時代、阿弥陀三尊像はまた彷徨うことになります。

1.永禄元年(1558年)、武田信玄によって甲斐善光寺に移されます。

2.天正10年(1582年)、武田勝頼が、織田信長により天目山で滅ぶと、岐阜城下に移されます。

3.さらに、同年6月、本能寺の変により織田信長が亡くなると、織田信雄により尾張国へ移されます。

4.後に徳川家康の手に渡り、遠江国へ移されます。

5.さらに慶長2年(1597年)、豊臣秀吉の手に渡り、方広寺の本尊にされます。

6.慶長3年(1598年)、秀吉の夢枕に、余は信濃に帰るとお告げがありました。
本尊は42年ぶりに長野に戻りました。本尊を見送ったその翌日秀吉は亡くなったとのこと。

阿弥陀三尊像は、それから、ずっと四百年以上、長野善光寺に安住されています。







山門 大きいですね





こんなに並んだ列ができています。


善光寺 本堂  国宝です。


とて大きくて、立派です。

御前立御開帳、回向柱、お数珠頂戴、すべて90分待ちでした。
すぐにすべてを諦めました。

私は、外陣で参拝し、ご朱印をもらっただけで帰ってきました。
ご朱印をいただいただけでも、満足しています。

考えが甘かったですね。(^_^;
また6年後に行きたいと思います。


回向柱


御礼参りの参拝をすませ、この後、朝食を食べに行きました。