平成21年10月10日
白石市から、高速道路で、仙台へ移動しました。
まずは仙台城へ。

 仙台城
仙台城は独眼流の異名を持つ伊達政宗が築いた城で、青葉山に築城されたことから「青葉城」とも呼ばれています。

 政宗は関ケ原の合戦後、岩出山城から仙台城へ居城を移すことになりました。
 慶長6年(1601)から築城が開始、当時はまだまだ戦国時代の風潮が残っている事もあり、標高115〜140mの高所に築き、東西が断崖絶壁、前面は天然の外堀に当たる広瀬川が流れるなど実戦を想定した堅固な山城とされました。

 幕府に遠慮し、仙台城本丸には天守閣は建てられませんでしたが、5つ櫓や楼閣城門が建ち並び、城下町側には御懸造りと呼ばれる数奇屋風の書院を設けるなどの仙台藩62万石、伊達家の居城としての威容を誇っていました。
脇櫓
脇櫓は、戦前は国宝に指定されていましたが、1945(昭和20)年7月10日の仙台大空襲 の際に焼失しています。
現在の脇櫓は、1965(昭和42)年に復元されたものです。
支倉常長の銅像
大手門脇の道路を挟んで向かい側に、支倉常長の銅像がありました。

江戸時代はじめに、伊達政宗の命で、ヨーロッパのスペイン・ローマまで渡りました。
立派な石垣です。
そして、仙台城本丸跡へ向います。
スムーズに駐車場に入れました。

たくさんの観光客がきています。
伊達政宗の騎馬像は、何時見ても、かっこいいですね。
仙台市街地が見渡せます。
遠く太平洋まで見渡せます。
土井晩翠の銅像
伊達政宗騎馬像の近くに、荒城の月の歌碑と作詞者の土井晩翠の像があります。
11時、1時、3時になると、「荒城の月」流れるそうです。
明治4年に仙台に生まれた土井晩翠は、仙台二高の教師でもあり、その当時に荒城の月を作詞したそうです。
次に、宮城縣護國神社を見学。

神社には、歴女さん達が書いた、萌え萌えの絵馬がありました。
政宗のイラスト入りです。
「やった、政宗に会えたよ」、「パーティしようぜ」など、よく分かりません。(^^;
ゲームの影響でしょうか、伊達政宗は人気があります。

 
 瑞鳳殿(ずいほうでん)   宮城県仙台市青葉区霊屋下23−2

御霊屋(おたまや、霊廟)、瑞鳳殿は、仙台市都心部の南西、広瀬川の蛇行部に挟まれた経ヶ峰(青葉山段丘の一部)にある伊達政宗を祀る霊廟です。

駐車場に車を停め、坂道を歩いて行きます。
木陰になり、かなり涼しいです。
政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)、瑞鳳殿は、1931年(昭和6年)には国宝に指定されます。

しかし、1945年(昭和20年)7月、仙台はアメリカ空軍による仙台空襲を受け大きな被害を受け、瑞鳳殿も焼失しました。
瑞鳳殿
現在の瑞鳳殿は、1979年(昭和54年)再建されたものです。
黒漆に、とても絢爛豪華な装飾を施されています。元の建物が現在まで残っていたら、国宝ですね。
発掘調査の出土品を展示するため、唐門脇には瑞鳳殿資料館が建設されています。

ここも、外人さんを含め、観光客は多かったです。 
感仙殿(手前)と善応殿
二代忠宗を祀る感仙殿(かんせんでん)、
三代綱宗の善応殿(ぜんおうでん)。

 
 輪王寺     宮城県仙台市青葉区北山1丁目14−1

仙台市青葉区の北山丘陵にあります。

輪王寺は、嘉吉元年(1441年)、伊達家九代政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、十一代持宗が、太あん梵守和尚を開山として、福島県梁川に創建されました。
その後、伊達家の変遷に伴い、一緒に移動し、最終的に仙台に落ち着きました。

本堂裏の日本庭園があり、大きな池があって、池のほとりに三重塔が建っているようです。
飯沼貞吉のお墓
白虎隊の中でただ一人生き残った飯沼貞吉のお墓です。
彼は仲間を裏切り、死にそこなったと自分をせめ、会津の地を離れました。
彼が当時の様子を語ったので、自刃した白虎隊のことが世の中に知られるようになりました。
志賀潔のお墓
志賀潔のお墓もありました。
1870年(明治3年) 仙台藩士の子として、仙台に生まれます。

母方の志賀家の養子となり、赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、世界に通用する科学研究者となりました。

 
 資福寺

紫陽花寺として有名な観光地です。
現在、秋なので、紫陽花の花は咲いていませんが。

この寺は、政宗の父、伊達輝宗の菩提寺となっています。
伊達輝宗の墓は、米沢の元資福寺跡にあるとのこと。

伊達家が、米沢から仙台へ移る際、そのまま置いてきたのですね。
その後、米沢の伊達輝宗の墓の件はすっかり私の頭から消えていました。  
資福寺では、シュウメイギクが、きれいな花を咲かせていました。

 光明寺     宮城県仙台市青葉区青葉町3−1

支倉常長の墓がある、光明寺を訪れました。
支倉常長(はせくら つねなが)は、伊達政宗の家臣です。

政宗の命により、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられました。
1615年、エスパーニャ国王フェリペ3世、ローマ教皇パウルス5世に謁見しますが、スペインとの交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620年9月20日)帰国しました。
常長の出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化しました。
帰国時には、日本ではすでにキリスト教禁教令が出されており、支倉常長は失意のうちに死にました
息子の常頼は、召使がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶した。
後に、常頼の子の常信の代にて赦され、家名を再興することが出来ました。
支倉常長の墓
古い五輪塔です。
右隣に、ルイス・ソテロを供養する墓がありました。
ルイス・ソテロは、支倉常長と共にヨーロッパへ赴いたフランシスコ会宣教師です。
支倉常長は、人生の晩年になって、悲哀を味わっています。
 
 覚範寺   宮城県仙台市青葉区北山1丁目12−7

覚範寺には、保春院 仙台藩祖・伊達政宗の母のお墓があります。
政宗の小田原出頭後、兄の最上義光のもとを頼っていましたが、死ぬ間際に仙台へ戻ってきたとか。
伊達政宗の母 保春院のお墓
右側のお墓です。
意外に小さな墓石でした。

 龍雲院  宮城県仙台市青葉区子平町19−5

龍雲院には、林子平のお墓があります。

林子平は、江戸時代後期の経世家で、高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人といわれています。
老中松平定信の寛政の改革が始まり、林子平は、政治への口出しを嫌う幕府に危険人物として目を付けられました。
海外事情に通じ、著書「海国兵談(かいこくへいだん)」を出版したことから、幕府から禁固刑を受けます。
林子平のお墓
最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居)に処され、そのまま死にます。
罪人とされたため、死後しばらく墓は造営されませんでしたが、1842年(天保13)に甥の珍平によって墓が建てられました。
時代の先駆者だったのに、可哀相です。

 
 土井晩翠のお墓

大林寺にあります。
宮城県仙台市若林区新寺4丁目7−6

土井家の墓域があります。
土井晩翠は、「荒城の月」の作詞者です。

 
 二代目谷風のお墓
谷風梶之助(二代谷風)は、今の仙台市若林区で生まれ、大相撲力士となり、第四代横綱まで出世した江戸時代の大横綱です。

谷風のお墓を見学する頃に、急に雨が降り出しました。

これで、本日の観光を終了し、仙台駅へ向いました。
夕食は、駅近くで「利休」というお店で、牛タンをいただきました。
牛たん極定食、2千円だったでしょうか。肉厚なのに、柔らかくて、ジューシーでとても美味でした。