平成21年10月11日 日曜日

仙台宮城ICから東北道に乗り、一路南へ、福島県へ向かいます。

途中、菅生SAで、朝食を食べます。
朝食後に外へ出たら雨。
出発して、暫くしたら、雨は止んできました。

福島飯坂ICで降り、国道13号線経由で、米沢市街へ。
空が晴れて、青空が見えてきました。

車の中は、日差しで暑いぐらいなのですが、米沢の外気温は、ちょっと肌寒かったです。

 善光寺   山形県米沢市万世町堂森375
午前9時くらいに到着ました。

やはり大河ドラマの効果はスゴいですね。
天地人の幟旗が立っています。
善光寺
善光寺には、前田慶次供養塔があります。

前田慶次郎は、戦国時代から江戸時代にかけて生き、傾奇者として有名です。
前田慶次供養塔

隆慶一郎の時代小説「一夢庵風流記」、漫画「花の慶次ー雲のかなたにー」の主人公です。
慶次が力試しに持ち上げたと伝わる「慶次の力石」


前田慶次郎(前田 利益・とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将で、滝川一族の出身、前田利家の義理の甥になります。

武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武両道の将だったが、奇矯な振る舞いを好むかぶき者(傾奇者・カブキ者)としても知られます。

関ヶ原の戦い後、上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森(善光寺の近くの森)に隠棲したといいます。
 
 上杉家廟所  山形県米沢市御廟1丁目5−30

上杉家廟所は、初代の謙信から12代目藩主までのお墓です。
一列に整然と並んでおり、厳粛な雰囲気を漂わせています。

上杉謙信の遺骸は、甲冑をつけ甕に納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬されました。

昭和59年1月「米沢藩主上杉家墓所」として国指定史跡となりました。

上杉景勝や上杉治憲(鷹山)がお墓もあります。
不識庵・上杉謙信のお墓
 中央は、知らぬ人はいないほど有名な戦国武将、上杉謙信のお墓があります。
上杉謙信のお墓を中心に、左右に整然と上杉藩主の廟所が並んでします。
変わった穴の形の石灯籠です。
二代藩主 上杉景勝のお墓
御館の乱に勝ち抜き、上杉家二代目当主となり、豊臣政権下で五大老となりました。
関ヶ原の戦い後、会津から米沢へ移封されました。
十代藩主 上杉治憲の墓
上杉鷹山という名前が有名です。

破産しかけており、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作った、江戸時代屈指の名君です。
入れ替わり、たくさんの観光客が訪れています。
 
 林泉寺  山形県米沢市林泉寺1丁目2−3
林泉寺は、代々長尾家の菩提所として上越市に創建され、上杉家の移転とともに、会津、米沢の現在地へ移ってきました。

2009NHK大河ドラマにでてくる、直江兼続とお船の方の墓があります。
直江兼続夫妻の墓

夫婦の墓所は珍しいです。
そして、夫と妻が共に同じ大きさの墓です。
直江夫婦は仲睦まじかったと伝承にもあるように、現在も共に寄り添っています。

直江兼続は上杉景勝の家臣で、上杉家の執政として活躍した智将です。
武田信清の墓
 武田信玄の六男。
 武田家没落後、越後の景勝公に嫁いでいた姉菊姫を頼ってきました。
仙洞院の墓
 上杉謙信公の姉で、長尾政景に嫁して二代景勝(政景二男)を生みました。
菊姫のお墓
 武田信玄の四女で、天正6年二代上杉景勝公と縁組、非常な賢夫人でした。
 慶長9年2月16日伏見邸において47才にて逝去しました。

 直江石堤  形県米沢市大字赤崩付近

米沢に、直江兼続が築いた堤防が残ってます。
米沢は、大雨が降れば米沢の城下が水に浸かり大変な目にあいました。
そのため直江兼続は、町を洪水から守ろうと石を積み上げ3本の頑丈な堤防を造ろうとした。
直江石堤
 直江兼続がはじめに築き町を守ったので、直江石堤と呼ばれていて、現在も石を積み上げた跡が残っています。
 石堤はかなりの幅があり、長大なものです。ちょっとびっくりしました。
川の側で、芋煮会をしている人たちがいました。
 
 照陽寺 

照陽寺には、上杉憲政の墓があります。
元は越後にあって、上杉家の移封とともに、はるばる米沢に引っ越してきました。

上杉憲政は、関東管領を務めた山内上杉家の当主です。
 弘治3年(1557年)、上杉憲政は長尾景虎(後の謙信)を養子とします。
 永禄4年(1561年)3月、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に関東管領職を譲渡しました。

 景虎に上杉姓と「政」の字を下賜して上杉政虎と名乗らせ、同時に山内上杉家の家督、系図、重宝も譲渡しました。
上杉憲政の墓
 上杉謙信没後、景虎と景勝との間で家督をめぐる争い「御館の乱」に巻き込まれ、その最中、とばっちりを受けて討たれてしまいます。享年57。
莅戸善政(のぞき よしまさ)の墓
 照陽寺の隣にありました。
 財政に明るかったため、竹俣当綱らと共に上杉鷹山に抜擢され、藩政改革に従事します。しかし鷹山の最初の財政改革が失敗したため、失脚し隠居。
 後に鷹山の要請により復帰し、寛政期の改革を主導しました。