平成21年10月12日 月曜日

 山形城

1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)には、初期の山形城が築城されます。

最上義光が、慶長年間に城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となります。
幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていました。
戦後、二の丸の内側を霞城公園、二の丸の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も埋め立てられました。
1986年(昭和61年) 国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われています。

山形城三の丸の広さが235万平方mであり、城自体の建物や構造など異なりますが、日本国内では5番目の広さで、奥羽地方では最大の城でした。
二の丸大手門
立派に復元されています。
最上義光に騎馬像
かっこいいですね。

最上義光が、慶長五年(1600)の秋九月、波涛の如く攻め寄せた上杉方の決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿です。

 最上義光歴史館

山形市の中心部、霞城公園の近くにある、山形の町の土台を築いた11代城主最上義光と山形城の資料を展示する資料館です。

入館料は、無料です。
館内には、最上義光が上杉勢との長谷堂合戦の際に身につけていた、弾痕の跡が残る兜や甲冑、指揮棒などの遺品や、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵等の絵画類や調度品など、貴重な資料が多数展示されています。
最上義光歴史館の周りの木々は紅葉し始めていました。
 文翔館

文翔館は、国の重要文化財「旧山形県庁舎及び県会議事堂」を修復・利活用している施設です。
正式には「山形県郷土館」と呼ばれ、文翔館はその愛称です。

1916年(大正5年)に、県庁舎および議事堂として、イギリス・ルネサンス様式を基調としたレンガ造りで建てられた。設計は米沢市出身の中條精一郎を顧問とし、東京都出身の田原新之助が担当。大正建築を代表的する作品の一つです。
昭和59年に国の重要文化財に指定された後、昭和61年から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年9月に完成しました。当時の工法を基に忠実に復原された建物は、大正の古き良き時代の薫りを今に伝えています。
古い建物をよく管理して、現在でもよく活用しています。

この文翔館も入館料無料です。
山形市、山形県は、結構太っ腹ですね。
建物内部は、絢爛豪華ながら、落ち着いた雰囲気があります。
大正のよき時代の雰囲気なのでしょうか。

 専称寺
専称寺は、最上義光の娘、駒姫を弔うために建立された寺です。木造建造物として、東北一の規模を誇ります。
専称寺は出羽五ケ寺の一つで、本堂は、木造建築としては東北最大級といわれています。

最上義光の娘、駒姫のお墓

最上義光の娘、駒姫は、最上義光と大崎夫人の二女でした。
豊臣秀次の側室となり、秀次の失脚に連座して、わずか15歳で悲劇的な最期を遂げます。

 光禅寺

最上義光をはじめとする最上家三代の菩提寺です。

 初め元三日町の長源寺にありましたが、最上氏が改易後、鳥居忠政によって、門前の三日町と共に、現在地に移建されました。
最上義光の墓

 墓地内には、最上義光の五輪塔墓をはじめ、殉死者四人の墓、最上家親・義俊父子の墓碑が立っています。

この後は、長谷堂城址へ向かいました。