平成21年11月 美濃の旅

 南宮大社(なんぐうたいしゃ)
所在:岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1

南宮大社は、「延喜式神名帳」にも仲山金山彦神社として名が見え、美濃国一宮でした。
近代社格制度により、1871年に南宮神社となり、戦後、南宮大社と改称した。

「国府の南に位置する宮」の意味で「南宮」を名乗るようになったのです。
源頼朝らの厚い尊崇を受けていましたが、関ケ原合戦の際に伽藍が焼失しました。

1642年(寛永19)に徳川家光によって現在の社殿が再建されました。
国重要文化財の伽藍がたくさんあります。
しかし、私が訪れた際、拝殿・本殿などは修復修理中でした。残念。


 真禅院(しんぜんいん)

真禅院は、行基が開基した寺院で、今から1250年前の創建になる古刹です。
その後、最澄により南宮神社と習合され寺号を大神宮寺と改められました。

山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれています。
かつての南宮大社の僧坊でした。
本尊は無量寿如来(阿弥陀如来)、十一面観世音菩薩。
南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていました。

明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され、朝倉山真禅院と称するようになったものです。
三重塔 国重要文化財
関ヶ原の戦により焼失し、徳川三代将軍 家光により寛永19年(1642)に再建されたものです。


 春王・安王の墓
 結城合戦で敗れた足利持氏の子 春王丸、安王丸は、幕府方の囚われの身となり、京都への護送中、金蓮寺で処刑されました。
瑞垣に囲まれた墓には、二基の宝筺印塔と、やや大きい宝筺印塔一基があります。
池田輝政陣跡
春王・安王の墓のすぐ隣にあります。
関ヶ原の戦いにおいて、池田輝政は、南宮山の西軍に備えて、ここに陣を構えました。


 崇禅寺(そうぜんじ)
岐阜県土岐市妻木町上郷55-1
崇禅寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。
山号 光雲山。

土岐明智頼重が文和3年(1354)に果山を開山として建立しました。
妻木城主代々の位牌や墓所があり、釈迦如来立像など文化財を多数所蔵しています。
枯山水の庭園。苔が青々としてキレイです。
とても大きなイチョウの木です。
黄色に紅葉した葉が、鮮やかでした。

 虎渓山 永保寺
 虎渓山永保寺(臨済宗)は、土岐川のほとりにあります。
 鎌倉末期、夢窓疎石ら一行が、この深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名づけられました。

 開山は夢窓疎石の法弟の元翁本元(仏徳禅師)、開基は長瀬入道道仁(頼氏)。
 1339年(暦応2)年、北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、三十余の僧坊が並んで隆盛を極めました。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として続いているのは、保寿院・続芳院・徳林院のみです。
 永保寺庭園(国名勝)は、夢窓疎石の初期の作庭として知られ、西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩を借景としています。「虎渓36景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきました。
永保寺に、過去2回ほど来ていますが、こんなに駐車場に車があったのは、初めてです。
びっくり。
永保寺の園内拝観は無料です。
観音堂(国宝)
 観音堂は、1314(正和3)年の建立で、寺で一番古い建物で、一重裳階付入母屋造で、唐様と和洋の折衷様式です。
永保寺の中心に、臥龍池という池があります。
この池に、無際橋という反り橋が架かっていますが、昨年、修復を行っていました。
修復が完了していました。
土岐川です。

永保寺は、紅葉の盛りということもあり、たくさんの人々が訪れていました。


 内々(うつつ)神社
 内々神社は、起源が古く、しかも日本武尊の伝説と深い関係があります。
 主祭神は尾張氏の祖建稲種命(たけいなだねのみこと)であり、これに日本武尊、宮簀姫命(みやずひめのみこと)を配しています。
東国を平定した日本武尊が帰路につくため、内津(うつつ)峠に差し掛かかった時、東海道を通っていたはずの副将軍 建稲種命(たけいなたのみこと)の訃報を聞き、「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き悲しみ、建稲種命の霊を祭ったのが、内々神社の始まりです。
昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願して、この社頭から軍船用の帆柱を伐り出したといわれています。
 内々神社 拝殿
この内々神社には、室町時代の禅僧 夢窓国師の作庭と伝えられる、廻遊式林泉型の庭園があります。

神社に、お寺の高僧が作った庭があるというのが、不思議です。
昔の神仏混交の名残でしょう。
紅葉が始まったところでしょうか。
まだまだ紅葉が楽しめるように思えます。