平成21年12月27日
平泉から、さらに北へ向かいます。

 斎藤實(まこと)の墓
所在:水沢市字片子沢
2・26事件で凶弾に倒れた元首相の墓です。
岩手県の郷土の誇りとなっている斎藤實元首相です。
幹線道路に、標識があったので偶然見つけました。
広い墓地の一角に、立派な構えのお墓があります。

ただし、墓地の名称も、管理する寺の名前もわかりません。
 
 
 角塚古墳(つのづかこふん) 国指定史跡

所在:岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田

 角塚古墳(つのづかこふん)は、岩手県奥州市胆沢区にある日本列島北端に位置する前方後円墳です。
 今から千五百年前につくられたもので、この地方の豪族の墓地と考えられています。
伝説では、高山掃部長者(たかやまかもんちょうじゃ)の妻が大蛇に変身し、農民を苦しめていたところを小夜姫(さよひめ)がお経の力で退治し、その大蛇の角を埋めたのがこの古墳だといわれています。
1985年(昭和60年)、国の史跡に指定されました。
全長45m、後円部の径約30m、高さ約4.5m程度であり、周壕をともなう中規模な古墳です。

前方部は南を向き、後円部にくらべて前方部が低く短くなっているのが特徴となっています。
葺石、埴輪のほか、前方部からは、馬形を含む動物、人物、家形埴輪などの埴輪の出土されています。

 後円部には大きな一本杉が植えられており、その形状はまるで鍵と鍵穴のようです。
 

 胆沢城跡(いさわじょうせき)
胆沢城は、坂上田村麻呂がアテルイ軍を押さえ込み、この地を平定するために約千二百年前に造営した古代城です。
城というよりは、政庁のような感じだったようです。
現在、城跡には田畑が広がっています。
造営後は、多賀城から鎮守府が移され、奥羽鎮守の拠点として、10世紀後半まで機能しました。城の形式としては、1辺約670mの方形で、周囲に土を固めて作った築地塀をめぐらせており、塀の内には儀式を執り行う政庁のほか、食料を供給する官衙などが建てられていました。

 
 豊田舘跡

「豊田城跡碑」が建っています。
豊田館は、藤原経清(つねきよ)とその子である藤原清衡の館跡といわれます。

長元年間(1028〜1038)、前九年の役で惨殺された「藤原経清」が築いたといわれ、後三年の役の後、奥州平泉文化を開いた経清の子・藤原清衡が生まれ育った所であると伝わります。
そこで、藤原経清は亘理権太夫(わたりのごんのたいふ)と呼ばれました。

安倍頼時の娘と婚姻していたことで、前九年の役(合戦)では安倍軍とともに戦いますが、厨川の柵で敗れ、貞任らと共に捕らえられました。

経清は源頼義の面前に引き出され、鈍刀にて首を切られました。経清に対する処刑がもっとも残酷でした。
前九年の役で安倍氏が敗れた時に、清衡は8歳になっていましたが、母親が敵将・清原武則の嫡男・武貞に再嫁したので、連れ子として清原家に入り、そこで成長するこになりました。
豊田城址碑
 それから20年後の永保三年(1083)に起こる清原家の内紛、「後三年の役」で、経清は28歳になっており、豊田館に本拠を置いていたと思われます。

康和元年(1099)、豊田館から、衣川を越えた「平泉」に移っていくことになります。