平成22年1月23日(土)

お天気がよかったので、埼玉県北部・群馬県東部の史跡巡りをしてきました。

常磐道〜外環道から、関越道に入ると、事故渋滞、そして自然渋滞が始まっていました。
土曜日の朝なのですが、スキー・スノーボードへ行く車で渋滞しているのでしょう。
我慢できずに、川越ICで下道に下りました。
下道を延々と走り、埼玉県北部の上里町に入りました。

まずは、金窪城跡へ。
 金窪城跡

 金窪城跡は、上野国と武蔵国の国境にあたる神流川と烏川の合流点の南に隣接して、忍保川の河岸段丘上に築かれた平城です。別名太耶城ともいわれます。
 平安末期の治承年間(1178〜81)に武蔵七党の一つ、丹党から出た加治家冶の築城と伝えられ、元弘年間(1331〜66)に新田義貞が修築して、家臣の畑時能に守らせたとされます。
 室町中期の寛正年間(1460〜66)には、斎藤実盛の子孫斎藤盛光が居城していたいいます。
 天正10年(1582)6月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で一族ことごとく討死し、城も兵火にかかって焼失し斎藤家は没落します。
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 その後徳川家康の関東入国にともない、川窪信俊の所領となり、ここに陣屋が置かれたいわれる。川窪氏は元禄元年(1698)丹波国(兵庫県)に転封となって、陣屋も廃されたそうです。
 現在城跡近くは城址公園があります。
 城跡の大部分は、民家・畑・雑木林に変わっています。
 城址公園の向かい側、民家の脇に、金窪城跡を示す石碑が建っています。

  福昌寺〜源帯刀先生義賢の墓
 所在:児玉郡上里町帯刀302

 源義賢は、源為義の次男です。義賢は、近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれました。
 父為義と不仲になり関東に下っていた兄の義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下りました。
 上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶り、武蔵国大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力を伸ばします。

久寿2年(1155年)8月、義賢は、義朝に代わって鎌倉に下っていた甥の源義平に大蔵館を襲撃されます。

 源義賢は、上里町帯刀まで落ちのびて没したため、地元の人々が五尺あまりの塚を築き、その上に五輪塔を祀った伝えられています。

 塚は、本堂の裏手にあります。

 福昌寺の周りは、一面の田園地帯です。
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 神流川古戦場跡
 神流川の戦い(かんながわのたたかい)は、天正10年6月16日(1582年7月5日)から6月19日(同7月8日)にかけて、織田方の滝川一益と北条氏直が争った戦いで、戦国時代を通じて関東地方でもっとも大きな野戦とも言われています。

  天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させる本能寺の変が起こりました。

 当初、北条家は、織田家と友好関係を結んでいましたが、これに乗じ、北条氏直・北条氏邦勢5万6千が上野に侵攻しました。
 上野を治めてまだ3ヶ月しかたっておらず、軍の統制が十分に取れていない滝川一益は、2万弱の兵を率い北条と対決することになりました。

 6月18日の第一次合戦で滝川勢が先勝、6月19日の第二次合戦でも緒戦でも滝川勢が優勢でしたが、北条勢を深追いし軍勢が著しく縦長となり、反転攻勢に出た北条勢に取り囲まれ、滝川勢は総崩れとなりました。4千人近くも討ち取られる惨敗を喫しました。
 一益は、一旦厩橋城に遁走し、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰りました。
 この神流川古戦場跡の碑は、群馬県側にあります。
 この説明版には、「石も燃ゆる盛夏の中死闘を展開し〜」と書いてあります。
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神流川の対岸、埼玉県上里町側には、この説明版がありました。
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 神流川、川の水量はそれほど無いですが、河原は渺茫と広がっています。
 本能寺の変の際、関東のそれも上野に駐屯していた、滝川一益は不運だといえます。信長から、上野を与えられ、日もたっていませんでした。

 軍配山古墳
 所在:群馬県佐波郡玉村町大字角渕

 正式には御幣山古墳といいますが、戦国時代、織田家の部将の滝川一益が神流川の合戦の際に、この古墳に本陣を置いたことから軍配山とも呼ばれています。
この古墳は、この付近一帯の有力な支配者の墓と見られ、古墳時代初期のものと考えられています。
 この古墳から、中国渡来の白銅製内行花文鏡2面や、勾玉管玉その他鉄器類が出土し、国立博物館に収蔵されています。
田んぼの真ん中にあります。
小高い丘のような古墳です。
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群馬県を走り、太田市へやって来ました。
平成の合併前の尾島町にあたります。

 総持寺
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 総持寺の創建は、仁安元年(1166)に新田氏の祖となった新田義重が開基したと伝えられています。鎌倉時代を通して、境内一帯が新田館だったとされます。
 その後一時荒廃しましたが鎌倉時代末期、新田義貞が再興し慶範を招いて中興開山しています。

 江戸時代に入ると、幕府から庇護されて朱印地10石が安堵され、隆盛を極め末寺36ヶ寺を数えたそうです。境内にある本堂、総門、鐘楼は天明年間(1781〜89)に再建された古建築です。
茅葺で、高床の鐘楼は、いかにも古そうに見えます。
 大きな堂々たる本堂です。
 境内は新田氏縁の史跡であることから、新田背荘遺跡として、平成12年に国指定史跡に指定されています。


長楽寺
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 1221年(承久3年)、世良田義季が、臨済宗の僧栄朝を開山として創建されたといいます。
 早い時期から官寺として扱われ、室町時代初期(南北朝時代)には関東十刹のひとつに列せられました。
 開基当初は臨済宗でしたが、徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、天台宗の僧天海により天台宗に改宗されました。
勅使門(赤門)
 かつては東照宮の正門として、勅使や幕府の上使が参内するときだけ使われ、それ以外には使われなかったので「開かずの門」と呼ばれていました。
たという。
 建築年代は、寛永年間(17世紀中ごろ)と考えられています。
 閉まっている門なので、気づきにくいです。
三仏堂
 1221年、徳川義季によって建立されたといい、江戸時代になって、3代将軍家光によって再建されました。
 阿弥陀如来を中心に、左脇の釈迦如来、右脇の弥勒菩薩が鎮座しているとのこと。
徳川義季公以下累代墓
 長楽寺の開基 世良田次郎義季を初め、得川氏累代の墓所と伝えられ、前方後円墳の後円部にあたります。入口中央に、文殊菩薩の仏様がいらっしゃいました。
 どの墓が、世良田次郎義季かは判りませんでした。
新田一族慰霊塔
 義貞に従って各地を転戦し、斃れていった新田一族1万人を供養するために作られた記念碑です。
開山堂
 堂内には、栄朝の像であります。
新田岩松家の墓
長楽寺 本堂
 新しい本堂です。建築まもないのでしょう。

それから、太田市中心部に向かい、金山城跡へ来ました。
 金山城跡
 金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、金山に築かれた山城です。全山アカマツに覆われています。
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 金山城は、1469年(文明元年) 新田一族であった岩松家純によって築城されます。
 以降、岩松氏以降の城主は、1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変わります。
 上杉謙信の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされます。
 1590年(天正18年)、 豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、廃城となりました。
 1934年(昭和9年)、国の史跡に指定され、現在は、公園として整備されています。
 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(17番)に選定されています。
 舗装された道路が、城の上部近くまであり、駐車場もあります。
 この日はお天気がよく暖かいこともあり、結構見学者がきていました。
 山城なのですが、よく整備されているので、歩ける格好をしていれば見学できます。
この先は、馬場下通路につながります。
日ノ池
水の手曲輪にあたります。水の手であると同時に、ある種の神聖な領域でもあったとのこと。
大手道は、威風堂々たる立派な石垣で復元されています。
本丸跡には、明治8年に、新田神社が建立されました。祭神は新田義貞公です。
好天に恵まれ、遠くまでよく見渡せました。
帰りは、群馬県東部〜茨城県西部へと入り、ずっと下道を走って帰ってきました。