平成22年5月

 神指城跡
高瀬の大木(ケヤキ)
 高瀬の大ケヤキは、慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にあります。
 神指城の築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mほどあります。
大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきていますが、樹姿はなお堂々としたケヤキの巨樹です。
 神指城は、このケヤキが城の鬼門、北東にくるよう、鎮守として設計したそうです。
 威風堂々、大ケヤキです。
 大ケヤキから移動し本丸跡へ向かいました。運動場の隅に車を停めて散策します。
 ここにも平成21年度の大河ドラマ「天地人」の幟旗がまだありました。
 神指城は、上杉景勝が築城しようとした城です。慶長4年(1599)会津120万石へ国替となった上杉景勝は、居城である鶴ヶ城が小田山に近く、守りに不安があったため、周囲が開けており大川の水を利用できる神指原の地に築城を始めました。
 築城は慶長5年(1600)2月から始まり、12万人を動員し昼夜兼行の突貫工事で進められました。しかし、この築城工事が徳川家康に上杉征伐の口実を与え、数ヵ月後の6月10日、会津征伐が間近に迫ったことから、工事が中止されました。 
 9月15日、関ヶ原合戦で西軍は敗れたため、西軍の一翼を担っていた上杉景勝は、米沢30万石に国替となりました。神指城はそのままそれ以後廃城となり現在にいたっています。
 城の面積は鶴ヶ城の2倍の55ha。完成すれば奥州を代表する巨大城郭が出現するはずだった神指城ですが、現在は二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すだけです。
如来堂
 会津藩鶴ヶ城がまさに落城寸前の折り、会津で戦っていた新撰組の面々はそれぞれ塩川、米沢、仙台などへ向かい、会津若松を後にしました。
 しかし、斉藤一ら十数名は「会津を見捨てることはできない」と会津に残り戦い続けす。神指城跡近くにあった如来堂を本陣にし、 9月4日、如来堂への西軍の攻撃を受けた斉藤一らは全滅ともいえる程の大打撃を受けました。