平成22年6月 明日香
久々に、明日香へ来ました。一年振りです。
近鉄の橿原神宮前駅で下り、レンタサイクルで明日香入りしました。
まずは、明日香資料館へ。キトラ古墳壁画の特別公開をしています。
 飛鳥資料館
 キトラ古墳の東西南北の四壁の中央には、四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていました。 発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明したため、壁画がはぎ取られました。
 その四神の壁画が公開されています。
平日のお昼ということもあり、待ち時間は無しでした。しかし、金曜日と言うのに入館者は多いです。
青龍は肉眼で判別できませんでした。かろうじて、赤くて長い舌が判るぐらいです。
他の白虎、朱雀、玄武は鮮明に見えます。
千三百年前に書かれた絵画が今でも見れるということは奇跡的です。見学でき感動しました。

 飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ) 
 甘樫の丘の東方、飛鳥の集落の突き当たりの丘に鎮座しています。
 
 飛鳥坐神社では、豊作と子孫繁栄を願う伝統の奇祭「おんだ祭り」がおこなわれます。見学したことはないのですが、田楽のようなものなのでしょうか。
 目につくのが境内に並ぶ陽石です。
 お参りして子宝に恵まれた人が奉納したものといわれ、現在も信仰されているようです。

 飛鳥東垣内遺跡
 飛鳥坐神社の傍らにあり、7世紀中ごろの幅約10m深さ約1.3mの大溝の跡です。「日本書紀」にいう「狂心渠」(斉明天皇が石上山の石を運ぶために掘った運河)の痕跡ではないかとみられています。

 石舞台古墳(いしぶたいこふん)
 奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳です。昭和27年(1952年)、国特別史跡に指定されました。伝承では、蘇我馬子の墓といわれています。
長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m。
約30の石が積まれ、その総重量2300トンに達すると推定されています。
昼間は公開されていて、玄室内に入ることができます。
封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説があります。
巨大な玄室で、とても広いです。
これだけ広ければ、玄室に住むこともできますね。

 亀石
長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mの巨大な花崗岩に、亀に似た彫刻が彫られています。とてもユーモラスな顔つきです。
亀石は、今は南西を向いていますが、西に向き、當麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化すという言い伝えがあります。

 菖蒲池古墳
 菖蒲池古墳は、藤原京の朱雀大路の南延長線上の聖なるラインに築かれた横穴式古墳で、国の史跡に指定されています。
 墳丘の形状は方墳か円墳のいずれかだろうと考えられていますが、形が判明していません。
玄室内には前後に凝灰岩を刳り抜いた2基の家形石棺が安置されています。

 天武・持統天皇陵

壬申の乱に勝利し、中央集権国家体制を樹立した天武天皇と、その妻・持統天皇を合葬した陵墓です。堂々とした八角墳です。
 明治時代に盗掘の事実が記録された「阿不幾乃山陵記」が発見されたことにより、被葬者が天武天皇・持統天皇と推定されました。
 それによると、大理石製の石室の中に、天武天皇の遺体は朱漆の柩の中に、持統天皇の火葬骨は銀の箱に入れたうえ金銅の容器に納められていたといいます。

 高松塚古墳

奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する、藤原京期(694年〜710年)に築造された古墳です。
直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳。
1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになりました。
壁画の題材は、人物像、日月、四方四神および星辰(星座)です。
四神のうち朱雀は、鎌倉時代の盗掘ためか、失われています。
西壁の女子群像は(壁画発見当初)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめ様々な場所でカラー写真により紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれています。

 中尾山古墳
中尾山古墳は、高松塚古墳の北約500mのところに位置する、八角形の墳丘をもつ古墳です。墳丘の直径22m、高さは3.2m。
国営飛鳥歴史公園館の前に聳える丘陵の上にあり、周囲がきれいに整備されていて、公園の一部と化しています。
築造は、7世紀末から8世紀初め。この古墳は、藤原京と壺阪寺を結ぶ「聖なるライン」の上にあり、被葬者は文武天皇陵であった可能性が極めて高いと推定されています。
しかし、文武天皇陵はほかの古墳に比定されており、ここは宮内庁管理ではありません。
八角形の墳丘は仏教寺院の仏塔を模したものです。

 岩屋山古墳

岩屋山古墳は、近鉄飛鳥駅の北西にあります。
レンタサイクルを停め、階段を登っていきます。
石室は、表面をきれいに加工した切石を2段に積み上げ、大きな天井石を乗せたもので、石室内部に自由に出入りできます。
石室はとても精巧な造りで、石舞台古墳の荒々しさとは対照的です。
南河内にある聖徳太子の墓と似ているといわれています。
天皇陵独特の八角形墳の可能性も指摘されており、飛鳥時代の斉明天皇(皇極天皇)を被葬者とする説もあります。

 吉備姫王墓(きびつひめおおきみはか)
 欽明天皇陵の南側に隣接する丘陵上にあり、直径8m程度の円墳であるとみれれています。
 吉備姫王は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母。柵内に猿石4体が安置されています。
 元禄15(1702)年に、欽明天皇陵近くの水田から掘り出された石像4体で、もとは欽明天皇陵に置かれていたそうで、明治初年ごろにここに移されたと考えられています。
 ユニークな石像です。

 欽明天皇陵

奈良県高市郡明日香村にある古墳。
梅山古墳といい、宮内庁によって欽明天皇陵(檜隈坂合陵)に指定されています。
墳丘は前方後円墳で、全長約140m 後円部径72mで、明日香村内では最大の古墳です。非常に多くの葺石があることでも知られています。
現在は陵墓の回りには、満々と水を貯えた周濠を持っています。

 鬼の雪隠
雪隠とはトイレのことで、昔この近くに住む鬼が、霧を降らせて旅人を迷わせ迷った所を捕らえこのまな板の上で料理し、お腹がいっぱいになった所で、 雪隠で用をたしたという伝説があるようです。
この石は、元々は古墳の石室の蓋の部分で、鬼の俎(まな板)が石室の底板で、二つで一体と考えられています。

 鬼の俎(まなした)
鬼の俎は、鬼の雪隠のすぐ上の丘にあります。
その実体は崩壊した横口式石槨の石室(雪隠)と底石(俎)だったようです。石室の内法幅は1.53m、高さ1.3mで、底石(俎)は長さ4.47mm、幅2.65mm、厚さ約1m。
欽明天皇の陪塚として7世紀ごろ作られたと推測される古墳の石室部分で、材質はいずれも花崗岩です。

 入鹿の首塚
集落の外れ、田圃のなかにあります。
645年の大化改新で、飛鳥板蓋宮で首をはねられた蘇我入鹿の首が、ここまで飛んできたといわれています。当時この辺りは、蘇我氏の領地であり、立派なお屋敷がたくさん並んでいたといわれます。

 飛鳥水落遺跡
日本書紀によれば、斉明6年(660年)5月「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に時刻を知らせた。」とあります。水落遺跡は中大兄皇子、後の天智天皇がわが国で初めて造らせた水時計の跡にあたります。二階建ての堅固な建物があったようです。

 難波池
 難波池は、現在の豊浦寺の隣にあります。
欽明天皇天皇13年(552年)仏経が伝来した時、蘇我稲目が私邸に仏像を安置したのが豊浦寺で日本最初の寺といわれます。
後、物部氏によって寺が焼かれ、仏像は難波の堀江(向原寺の南側)に捨てられたと伝えられています。

長野市にある善光寺の御本尊・阿弥陀三尊像は、難波の堀江に捨てられた仏像であるといいます。

 豊浦寺跡
552年(欽明天皇13年)百済から渡来した金銅の釈迦佛を、欽明天皇が蘇我稲目に預けに、稲目が向原の家を寺に改め如来を安置したというのが、我が国の歴史に残る仏寺の最初で向原寺といいます。
 その後疫病が流行し、「仏教崇拝による日本古来の神の祟り」という理由で、物部尾輿により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されてしまいます。
 593年日本最初の女帝推古天皇が豊浦(向原寺跡)で即位、10年間ここに豊浦宮をおきます。603年に宮を小墾田(おはりだ)に移すにあたり、宮を蘇我馬子が譲り受け豊浦寺を創建します。豊浦寺は日本で最初の尼寺だったようです。
豊浦寺、飛鳥五大寺の1つでした。

現在のお寺は、浄土真宗本願寺派で、聖徳太子御遺跡霊場第12番札所となっています。

 興福寺 五重塔

 奈良市内に宿泊だったので、近鉄線で奈良へ戻り、夜に奈良市内を歩きました。
 興福寺 五重塔がライトアップされていました。

 せんとくん

結構、見慣れるとかわいいのではないかと思います。
近鉄奈良駅の改札出口で待っていました。